空。
人々の目指す高みの象徴。
空。
神々が下界を見下ろす聖域の下端。
空。
人と神との思惑が入り混じる、美しき境界……。
その色は、今、見慣れぬ色に染まろうとしていた。
西の中空に大きく浮かぶ『蒼龍の月』。
透明感漂う清澄な輝きは常に神々の霊威を感じさせる。
南の天頂に鎮座するは『黄皇の月』。
闇黒を貫く白き光の源は、圧倒的な存在感を纏う夜の女王。
そして。
東の地平線上に徐々に姿を見せつつある紅の染み。
それは空の流す血涙であるのか。
天に描き加えられた、凄惨なる絵画。
輪郭の暈けた少々偏った円型は、だが、まだ小さく、星座の語らいの中に加われる程ではない。
しかし、少し前より人々の目にふれるようになったそれは、ほんの一握りの者の間では、遥か昔より、ある物語の主役として注目を浴びていた。
その一部の者達の言葉を借りるならば。
その名を『紅亡の星』という……。
〜序〜
彼女が立っているのは、広さの感じられない奇妙な空間だった。
先を見通せぬ闇の向こうは、すぐに世界の端だとでもいうように、妙な圧迫感があるのだった。
彼女の傍らでは、薄く青い光が中空に球となって浮かび、彼女と、彼女の前の一冊の本とを照らしている。
それ以外には何も無い、闇以外に何も見えない、彼女だけの部屋……。
本は、周囲の音すらも吸収するかのような漆黒を固めたが如き重みを感じさせる、古びてかさついた革の装丁で、指数本分の厚みを持っていた。
それは、彼女の、水色に照らしだされてゆっくりと上下している、形の整った胸の前に、支えも無しに漂っている。
音も無く、頁が繰られていく。
彼女が手を触れている訳でもないのに。
彼女はその有様を無表情な瞳で、見つめていた。
……あの頁で止まるまで。
彼女は静かに目を瞑った。
瞑想でもしているかのような、荘厳な沈黙が満ちる。
本が、自らの存在を強調するかのように、あの頁を開いたとき。
彼女は、溜息をつき、呟いた。
嘆きと悲しみと、そして少しの希望を込めて。
「何度、目にしてきたのだろう、この光景を……。……でも……。」
彼女は左手の掌を見つめた。
陽の光に灼かれたことの無い、あくまで白く透き通った造形美の極致。
その中央に、不意に赤い雫が浮かび上がる。
それは小さい玉となり、はじけ、紅の線となって、手首から肘へと伝い落ちていく。
「変えることは出来るはず……。」
彼女は手を振るった。
天界の調べを統率する音の芸術家さながらに。
鮮血が飛び散り、既に変色していた紙面を更に別の色素で染め上げる。
「例え一滴の血でも、それが千、二千と流されれば……!」
言の葉が舞い散り、沈んでいく。
そして、闇が全てを覆い隠した。
〜1〜
ふらふらと人影が彷徨っていた。
あの丘の向こうに、あの街があるという。
その言葉を信じて、ずっと歩いてきたのだ。
手にした巻物には、『トレートティース』と記されている。
かなりの規模の都市の筈だった。
これまで、気力、体力を振り絞って、決して短くはない道程を辿ってきた。
だが、身体の深奥より搾りに搾り出した力も、愈々尽きようとしていた……。
一歩。
また一歩。
前を見ることもなく、ひたすら足元を見つめ次の歩みを踏み出す。
街を目指すその者の名は……。