JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





十周目三番



 音に満ちた狭い空間を歩いていると気が狂いそうになる。音を意識していなければどうということはないのだろうが、この狭く暗い――光源などないので、彼女は自らの魔術で光を灯さなければならなかった――通路では、嫌でも耳に入ってくるその音を気にかけずにいるということは容易なことではなかった。
 壁そのものが音を立てているような場所だ。実際には音は彼女の左側の壁の向こうだけから聞こえているはずなのだが、その通路を長く歩いていると、上下左右の壁がそれぞれ別々の音を奏でているように感じられる。
 場所的にはすでに聖教府は中の塔の地下――『太陽の間』よりも下という位置に到達しているはずだ。この音の一部には聞き覚えがある。『太陽の間』の沈黙の中に佇んでいると、足元の地下深くから聞こえてくるかの如き音。それを女神の心臓の脈動音に喩えるのはあまりにも幼稚といえば幼稚な連想だが、『太陽の間』に立つ資格を持った誰かが発した言葉であることもまた間違いない。この地下以外でその音を聞きうる場所があるとすればそれは『太陽の間』をおいてほかにない。こうして近くで聞けば、これが心臓の鼓動などという生物学的な音でないことは明らかだ。巨大な機械装置の部品が複雑に連動して動く動作音。その中で最も大きな音が『太陽の間』まで微かに届き、それがどことなく生き物の――人間の心臓の拍動音に聞こえないこともない、ということなのだろう。
 無数の歯車が複雑に噛み合って立てる音は、そのひとつひとつの音はそれぞれに確かな法則性を持って鳴っているのだろうが、その全てが交じり合うと、大小遠近さまざまな機械音の無秩序な合奏となって轟き、聴くものの意識を混乱させる響きとなる。
 本来ならば彼女が歩いていていい場所ではない。いかに修道騎士団の長といえども、その他の、同格の役目を持つ部署においては部外者に過ぎない。それらの部署の長たちの中でも彼女は格上と看做されているにしても、本来彼女には北の塔――『時の司』たちの領域にしかないこの地下施設への扉をくぐる権限はないのだ。
 というより、本来はその入口の場所を彼女の立場で知っているはずがないのだ。『時の司』たちも、その頂点に近い者と、この地下機構で立ち働く一部の特殊技能者を除けば知りようのない知識を彼女が得ているのは、幼少時に教会の図書館にほとんど住み着くようにして手当たり次第に、ほとんど誰も立ち入ることなく埃をかぶっていたような区画にまで踏み込んで知識を吸収した結果だ。
 中の塔は教会の主塔でありながら、その構造物のほとんどは休眠状態にある。それは来たるべき日にこそ起動されるべき魔法装置の本体が眠る場所であり、その頂上付近を『教母』の領域とし、その基底部に『太陽の間』を持つ以外は一般の信者、聖職者はもとより、彼女や『教母』のような最高位の聖職者たちすら平時は立ち入ることを禁じられた領域だ。その魔法装置の維持と整備には専門の階級の聖職者が携わるが、かれらもそれぞれ定められたごく一部の区画にしか立ち入ることはなく、その全体像を把握する者は存在しない――少なくとも表向きはそういうことになっている。もっとも、存在自体が秘匿されているこの魔法装置に関して「表向き」もなにもないといえばないわけではあるが。
 その中の塔においては休眠状態にあるその機械と、目的や役割こと違えども、それを構築する基礎になった技術的な根幹は同様なのであろうと彼女の知識から推測される機械装置が、ここではいっときも休むことなく動き続けている。そうした巨大な機械装置を作り、動かし、維持すると知識と技術は、外の世界――彼女のいる教会中枢部であってすら――では完全に失われている。
 北の塔の極秘の扉をくぐり、聖教府の地下構造にぶつからぬように複雑に曲がりくねった、さらには万一誰かが偶然に踏み込んだ場合にも決して正しい通路をたどってその中枢部に踏み込むことがないようにいくつもの枝道によって迷路のようになった通路を通り抜け、さらに地下深くに踏み込む階段を下って、彼女はいまそこを歩いている。中の塔の直下、はるか地中深く、溶岩を穿って作られた『時の司の間』に至る最奥の通路。
 そうしてみれば、ひっきりなしに続く機械装置の音だけが、この気が狂いそうな圧迫感の原因というわけではないのだろう。自分が今いる場所の真上に存在する圧倒的な質量がもたらす圧迫感もそれに劣らずそこを歩く者の神経を苛む。彼女の鍛えられた精神をもってすらそうなのだ。この地下構造部で日々立ち働く『時の司』の特殊技能者たちの神経はどうなっているのだろう、と、そんな疑問が一瞬、頭をかすめる。
 機械音と閉塞感のもたらす圧力と戦い、それから意識をそらすためにここで働く者たちの精神構造にまで思いを馳せていたフィアナは、それで、その扉――目指していた扉が眼前に迫るまでそれに気づかず、あやうくそこに額をぶつけるところだった。
 ――ここまでせっかく『時の司』たちに見つかることも道に迷うこともなくやってきたのに、最後がそれではあまりに間抜けというものだ。もっとも、彼女はこの扉の奥にいるであろう人物と会うためにここにやってきたのであって、その人物に気取られないことには大して意味はないのではあったが。
 左右両開きの扉には、簡素だが頑丈そうなつくりの棒状の把手が取り付けてあった。それをつかんで、押す。重そうに見えるわりに、扉はわずかの力で音もなく前方へ――円形の広間の中へと開いた。
 不思議なことだが、扉の中は外に比べて機械の動作音がいくぶん弱まっているように感じられた。天井と床には円形の装置があって、それを動かすために巨大な、複雑に連動した機械装置が必要なのだということを、彼女は知識としては知っていた。知っていたが、実際にそれを見ると、その構造に圧倒される。
 円形の広間の中心と同じ場所を中心とした巨大な円盤が、床と天井に埋め込まれている。
 いずれも、円盤の中心から伸びた円盤に平行な針が円周上の目盛りを指す形の機械装置で、より単純なものであれば同様の機械装置を他の場所でも「時計」という形で目にすることは、彼女ら――彼女や、今その床に刻まれた円盤のすぐ外に、彼女に背を向けて立って床の円盤を凝視している若い男――のような、そうした手間と金のかかった工芸品を見る機会のある立場にいるものならば、あるだろう。そうした「時計」は、円周上に円周を十二等分した目盛りが刻まれており、通常は二本の針を持つ。短い方の針は円盤の中心点を軸に一日に二回転し、一日を二十四目盛りの区分に分ける。長い方の針はそれよりも速く同じ軸で回転し、短い方の針がひと目盛り進む間に一回転し、一日に二十四回転する。これらの二本の針はいずれも同じ速度で円盤上を回転するため、「時計」の機械的な構造は、精度を維持することは容易ではないにせよ、構造自体はそんなに複雑なものではない。しかし、これらの天井と床にある時計の怪物は、より複雑な事象を描き出すためにその動きも単純な等速回転とはほど遠いものであって、要求される正確さも市井で贅沢品として目にする「時計」などとは比にならないということを、彼女は知っていた。
 この「時計の怪物」こそ、彼女が先日の最高教会議で言及したかの『大いなる災厄』に至る情勢の進行と、その災厄が「始まる」その日を予見する時計にほかならない。床のそれも、天井のそれも、今は大小長短色もさまざまな針がそれぞれ勝手な方向を指しているように、彼女のような部外者には見える。それから意味を読み取ることができるのは、『時の司』の頂点に立つ者ぐらいのものだろう。そして、それが「その日」を指したとしても、彼女にはそれを理解することなど、おそらくは、できない。できないながらも、たとえば、「時計」の長短の針が一日の中で特別な時間――日付が変わる瞬間や、太陽が真南に位置する瞬間――には特別な図形を描くように、これらの「時計の怪物」も、そうなってしまえば彼女のような部外者でもそこから何かの意味を感じずにはいられないような特別な、整然とした図形を描くのだろう、と、理由もなくそう彼女はそう予想するのだが。
 それにしても、これら「時計の怪物」の何と巨大で仰々しく不吉なことか。天井のそれと床のそれは一見して同じ大きさの円盤を持つように見えるが、その円盤の大きさときたら十歩や二十歩では渡りきれないぐらいのものだ。その巨大な円盤の中心から円盤の円周近くまで伸びた長い針が突然動き出して、今まで指していたのとは別の目盛りを指す位置まで音もなく――いや、ひっきりなしに聞こえてくる機械装置の音に、繰り返されるそれ以外のものが混じったようにも感じる――すべるように動き、新たな目盛りを指す位置で、今度は、がこん、と明らかに音を立てて止まるのを見たときには、この機械装置の音の中を歩くことに慣れつつあったフィアナですら、びくりと全身を震わせてしまったものだった。
「扉を、閉めていただけませんか、修道騎士団長どの」
 振り返りもせず、彼女に背を向けて立ったその青年がため息混じりの声を発したのは、まさか、その気配を感じたからでもあるまい。扉は音もたてずに開き、足音を立てずにこの広間に入ったとはいえ、かれが彼女の来訪に気づいていたことを、彼女はほぼ確信していた。返事をせずに、音を立てずに言葉に応じる。扉を閉ざすと、この部屋の壁や床や天井、扉などに何らかの強力な防音措置がなされていることを示すように、通路方向から聞こえてきていた機械の動作音が明らかに小さくなる。なるほど、この差で気づかれたのだろう。もっとも、彼女が何者であるかについて青年が確信を抱いていた理由にはならないが。
「困ったものですね。現在の執行者たるあなたが、この過去の中枢にやってくるとは」
「あなたとて、この場所に踏み込む権限を持っているわけではないでしょう。いかにあなたが『時の司』の一員としての身分も持つとはいえ、あなたはその中枢にいるわけではない」
「そう、私は『時の司』としてここに立っているわけではない。あなたと、あなたの妹が教会内での表向きの役割とは別に《絆》の一族としての立場を持つように、私にもまた私だけの役割がある」
「それゆえに、過去のみならず未来にまでその手を伸ばすつもりか?」
「あなたもまた現在の執行者でありながら、過去に属するこの場所まで来ているではありませんか――そこでは話がしにくい。ここへ来ませんか? なかなかの眺めですよ」
 青年の言葉に、フィアナは歩を進めた。円形の広間の広さは、その直径にして「時計の怪物」の倍ほどだ。確かに、この機械音の中でそれだけの距離をおいて話をするのはなかなか面倒なことではある。
 円周のどの縁に立とうと大差はなさそうなものだが、彼女が近づくと、青年は律儀に半歩左に寄って、彼女が立つ場所をあけた。
「……なかなかの眺め……と言われても、私に理解できるものではありませんけれど」
「まぁ、全てを解説していたのでは時間がかかりすぎますし、意味もありませんから、いくつかの部分だけ説明しますよ」
 青年の横顔を見もせずに言ったフィアナに青年もまた振り向かずに答えた。
「まずは天井を見てください。こちらは床のものよりも規則的に動いているし、解説もしやすい」
 言われるままに天井を見上げる。円盤の上で雑多な方向を向いた針は十を少し越えた程度の数。そして、それぞれの針には先端近くに記号の刻まれた円形のプレートがとりつけられていた。
「……なるほど。太陽と月と惑星の進みを示す時計、ということですね」
「さすがは修道騎士団長どの、理解が早い」
 感心する響きも、揶揄する響きもない青年の言葉だった。
「その通りです。もっとも、『時の司』の言葉では、太陽も月も含めて「惑星」と呼ぶのですけれど」
 惑星とは、月や太陽のようには規則的に天球上を動かない星ぼしの呼称である。見かけ上、天球上を順行したり逆行したりと惑うような動きを見せるがゆえにそう呼ばれる星ぼし。ゆえに、その運行を示す時計の構造も、単に一日をいく等分かする通常の時計のように単純というわけにはいかないが、それにしてもこの地下構造の仰々しさが必要になるものとは思えない。
「これらは星ぼしの運行の法則のみ従うように見えて、実際にはそれ以外の要素によっても影響を受けています。太陽、月、そして惑星――狭義での惑星――たち以外の星の影響も受けるため、惑星の運行についてのみの天文学者たちが作り出した方程式ではこの天井の時計の運行はなし得ません」
「紅亡の星……」
「そう、天球上で惑星たちの運行に影響を与える因子、それが紅亡の星です……」
 針にとりつけられたプレートの記号は、それぞれ、太陽やふたつの月や惑星――それらをひっくるめて『時の司』は「惑星」と呼ぶらしいが――を示す記号で、市井の天文学者たちもふつうに使っているものだ。しかし、ひとつだけ、一般には知られていない記号がある。そのプレートを取り付けられた禍々しい赤色の針が、他の針とは異なり、伸縮可能な構造をもつことに気づき、それから他の針を見渡して、フィアナは、それらの針の長さが惑星達の位置関係を示し、太さが惑星の見かけの大きさを反映していることも理解した。
「これらの惑星の運動を過去の記録から計算してゆけば、未来の任意の時点での惑星の配置を予測することは可能です。それゆえ、『時の司』は過去の管理者と呼ばれる」
「しかし、その他の要素が関与してくるとなれば、過去だけに目を向けていればいいということにはならない、と言いたいのですか」
 沈黙が同意を示すのを待って、フィアナは言葉を継いだ。
「けれど、それは理由にならない。現在は時々刻々と過去になってゆく。『時の司』は常に一瞬前の過去を記録し、その記録から未来の予測を修正してゆけばよい。あなたがやろうとしていることは、この針の動きに自らの意志を反映させることではないのですか?」
「……次は、床の針について説明しましょう」
 フィアナの問いには答えず、青年が言葉を継ぐ。
 それ以上の追求はせず、言われるままに、フィアナは視線を落とした。
「針はいくつもありますが、今見ていただきたいのは、重なっている四つの、あの向こう側にある針です。私達の位置から見て普通の時計にたとえるならば、十時あたりの角度でしょうか」
「四本の針……赤と青と緑と……」
 もう一本は金属の色をそのまま残した色で、その色を表現する言葉を捜して一瞬言い淀む間に青年が次のひとことを発した。
「三つの《鍵》と《標》を示す針です。これらは『鍵穴』から離れてあってもこの地下の魔法装置と魔法的なつながりを保っている。《鍵》や《標》の動向は常にこの地下構造内にある関連した魔法装置によって監視され、これらの動きがここの針に反映され、また天井の針にも反映されます」
「……我々のような、地上での実行部隊が必死で情報を集めて動向を追跡したのはすべて徒労だった、と?」
「そうだったら物事はもっと簡単だったでしょうね……」
 青年の言葉に嘆息の響きが混じる。
「実際には、そうした実際の地上部隊やそれ以外の人々の自由意志による行動が《鍵》や《標》の動向に影響を与え、それがここに反映される現在のそれらの状況にも影響する。その影響は星ぼしの動向にも影響を与え――といっても、《紅亡の星》以外に対しては微弱な影響ですが――天井の時計の針をも回す……」
「……だからといって、この時計を知るあなたがこの時計を見て知ったことをもとに恣意的に現実を動かすことは――」
「私がこの時計の内部構造を知っているわけではありません。知っていてもとうてい私が理解しきれるものではないでしょう。だから、知っていても知らなくても、私がここを見てできることといえばせいぜい、自分が動いた結果がどう事態の進展に反映されているかを確認することぐらいですよ」
「それでも、あなたの求める事態の進展は教会の求めるそれとは違いすぎている……だから教会はあなたの思想を危険思想と断じ、しかしあなたの持つ見識を買ってあなたを今の立場に就けた……」
「他人事のようによく仰る。あなたが積極的に賛成しなかったのは聞き及んでいますが、あなたの立場で断固反対の意思を示せば教会上層部は押し通すことはできなかったはずだ。あなたは反論しなかった。何故です?」
 フィアナは答えなかった。理由はあった。が、青年が言いたいのは別のことだということがわかっていたから。
「《絆》たるあなたの妹。その表側での行動を指導し指揮してきた私が今後もその立場にい続けることが、あなたにとって、あなたの妹のためになる、と、考えたから、ではありませんか?」
 予想した通りの言葉だった。
「それは違います。私もまたあなたの見識を買ったのです。ティオレをどう扱うかについて、教会の一部のやり方よりもあなたのやり方が正解に近いと考えたのは事実ですが、それはティオレのためでも、ティオレに対する私の感情故でもありません」
「ではそれでよろしいでしょう。あなたは私のやり方を認められた」
「相対的なものです」
「だが、絶対はない。誰も絶対は知らない。いいや、私は知っている。私は私のやり方、私の目指す場所が正しいという確信を持っている」
「それが危険だと言っているのです。一度世界を滅ぼし、しかる後に再生を求めるなど……」
「それこそが真に教会の進むべき道です。たとえ教会がそれを忘れ去ろうとも、過去の管理者たる我々の中にその知識は連綿と息づいていた。その真意を知り得る者がたとえその現職者にいなかったとしても」
「けれど、そのかれらが学んだのと同じ知識の中からあなたが導き出した解釈はかれらとは全くことなっていた。あなたひとりが正しいと断ずる根拠はどこにあるのです?」
 答えずに、青年は天井に目を向けた。それを自分が見てとったという事実が、はじめてフィアナに、自分が青年のほうに向き直っていたことを気づかせる。
「紅亡の星、それは滅びの星。赤は滅びの色にして命の色。それは炎の色にして血の色。それこそが教会の根源の色にして、ゆえに我らが最高指導者たる『教母』はその色をまとう。それは同時に我が教会の始祖たる聖者インマヌエルの衣の色にしてその火刑の炎の色」
 インマヌエル――それは、フィアナとティオレの姓に使われている古語よりもなお古い言葉で「神は我らとともにあり」を意味する。
「そして、全世界の人々の「罪業」をその肩に背負ってそれを裁く炎による死から再生した聖者インマヌエルの姿は、来たるべき世界の姿の暗示だとあなたは神学院の卒業論文で指摘した。そこに引かれた引用文献とそれに対する理解の深さに対する評価とその結論に対する評価で神学院の教職たちの意見は真っ二つに割れた……」
「再生は完膚なき死、灰に至る滅びの後にしか有り得ず、ゆえに来たる大いなる災いのときにおいては再生のための動きの前に世界に滅びがもたらされねばならない。そして、それを実現することこそが教会の真の責務」
「そして、その聖者インマヌエルこそが先代の《その者》であり、かれのかけられた火刑台とは教会の魔法機構を示す、とまで飛躍したとあっては、教会中枢が未曾有の混乱に陥るのは避けようがないことでしょうね。私は後から聞いた話ですが」
「その教会の魔法機構がそもそも、一介の神学生の知り得るところでは有り得なかったわけですから、ね」
 青年の声が笑いを含んだように、フィアナは思う。
「世界は死と再生を繰り返し、その節目ごとに炎により世界を浄化する――あなたはそれを実現するつもりですか」
「違います」
「……え……?」
 予想外の返答に、フィアナは天井に向けていた目を青年のほうに向けた。こちらを向いた青年の目と目があう。
 強い意志の力を隠しもしない目。絶望のなかにわずかな希望を探ろうとする目だ、と、理由もなくフィアナは思った。
「最悪の場合には、しかし、そこを落とし所とする覚悟はありますが。ですが、私が世界を導こうとしている場所はそこではありません。たとえそれが正しいとしても、その一定の周期ごとに滅亡と再生を繰り返すことが世界の正しき姿だとしても、私はその正しさを求めない。その意味では私は異端なのでしょう。私自身が正しいと確信するものに敢えて挑もうとしているのですから。皮肉な話ですね。その、私が正しいと確信しているそれの時点で、私はすでに異端扱いされているというのに」
「けれど、多数派が提唱し、またあなたも大筋で合意して見せたような形での穏便な――比較的穏便な事態の収拾という形を目指すつもりもない?」
「そういうことです」
「そこまで……」
 そこまで確信できるのは何故だ。青年神父と向き合ったまま、フィアナは言葉を失った。彼女もまた青年と同じように本来自分が触れることの許されていない知識まで手を伸ばして情報を集め、考えに考えぬいている。青年の思想がそれらの知識と必ずしも背反しないことはわかるが、だからといってそこまでの確信を持つに至るというのは想像を絶することだし、その上、それとすら異なる場所へ世界を導こうなどといったいどうして思えるのだろう。
 その思想自体を断罪するつもりはフィアナにはない。その必要があるとは思えない。いかに事態に直接関与できる立場にあろうとも、この青年神父ひとりで教会の永きにわたり準備されてきた機構を思うように動かすことなどできようはずはないからだ。しかし――。
「修道騎士団長、あなたは先程、聖者インマヌエルを「かれ」と呼んだ」
「ええ……それが何か? あなたの論文でもそう書かれていたはずですが?」
「その点だけは、訂正しなければなりませんね」
 目を伏せて、青年はつぶやくように言った。
「聖者インマヌエルは「彼女」だったんです」
「なん……ですって……?」
「教会の頂点に立つ者が『教母』であることが、これで説明できたと思えませんか?」
 青年の唇が微笑みを形作った。
 冗談、なのだろうか。それとも――。
 ふたたび、青年は天井に視線を向けた。
「実際に「その時」がくれば、この天井の時計の針はとてもシンプルな図形を描くでしょう。今後のいくつかの不確定要素にもよりますが、いくつかの針が同じ場所を指して揃い、そうして、これだけの数の針が、ほんのいくつか――恐らくは二つから四つ――の角度を指した状態で揃う。すなわち、複数の惑星と惑星がこの地上から見て同じ方角に重なった状態、「合」の状態になるわけです。この組み合わせがどうなるかは今後の不確定要素の動きによって異なりますが、一部については確実に同じ組み合わせになることがはっきりしています」
 青年は息をついだ。単に一気に喋って息が切れたというわけではなく、次に口にする言葉に備えて心構えを新たにした、という風情で。
「太陽と、ふたつの月と、紅亡の星が、時計でいうところの六時の方角を指して重なります。太陽が一番遠く、紅亡の星が一番近い状態で」
 太陽が一番遠く、その手前にふたつの月が重なってその光を遮り、その手前に――。
 その景色を想像して、フィアナは眩暈のような感覚を感じた。
「残された時間は、あと、わずか、です……」
 青年の声が静かに流れた。

 夕陽が沈もうとしているのだろう。世界は紅に染まっていた。紅亡の星の色、炎の色、血の色。その光の中に長い影を落として、三人の女性が立っている。ひとりは静かに佇み、次の船がやってくる時間を待っている。聖都に入る滝昇りの船の船着場だ。日が沈んだ後は船の定時運行は停止されるから、おそらく彼女らが乗るのが今日の最後の便ということになるだろう。小柄な、特徴的な反りのある長剣を携えた女性は、何かの武術の型をさらうように体を動かしている。そして三人目――。
 杖を手にしたその女性は、その武術の修練をしている女性のほうを見るともなしに見ていた。
 軽く、意識を集中する。それで、その女性には届く。彼女とその女性は強い《絆》で結ばれている。こちらは魔法的な装置を通じて彼女らを見守っているが、むこう側からはこちらは見えない。にも関わらず、その女性はこちらに気づく。
 こちらを向く。夕陽の強烈な赤い光の中ではそうとは知れないが、その髪はその夕陽にも劣らぬ赤さをしていることを、彼女は知っている。その瞳が鮮やかな緑色の輝きを放つことも。
 同行している二人がその姿を見れば、夕焼けに映える雲を見上げているように見えるだろう。そして、何故夕焼けの美しさを愛でるのにそこまで真剣な、思いつめたような目をする必要があるのかと不審に思うかもしれない。
 その目に向かって、小さく、頷いてみせる。かすかに、その動作があることを予測して注意深く見つめていなければ気づかないぐらいかすかに、その女性もうなずいて返すのが、彼女にはわかった。その女性は幾度もその姿を変えた。だが、その赤毛と緑の瞳、そして赤を基調にしたその衣の色を変えることはなかった。その女性は幾度もその名を変えた。だが、その名はその最初の名前の最後の一節を必ずどこかに含んでいた。そうしてその女性は下界をさまよい、それを彼女はここから見守っていた。
 ひとがいくつもの世代を重ね、教会がその原初期の役目を見失ってしまうほどの長きにわたって。ふたりはそうしてきた。彼女が、その女性を「火刑台」に導いたあの日から。あの、『大いなる災い』の日から。
 再び、軽く意識を集中すると、その虚空に映しを出されていた映像は音もなく消え、青い光のかたまりとなって、彼女の傍ら、中空で球の形とる。その光の中に、彼女と、彼女の前の一冊の本が照らされて浮かび上がる。
 それ以外には何も無い、闇以外に何も見えない、彼女だけの部屋……。
 本は、周囲の音すらも吸収するかのような漆黒を固めたが如き重みを感じさせる、古びてかさついた革の装丁で、指数本分の厚みを持っていた。
 それは、彼女の、水色に照らしだされてゆっくりと上下している、形の整った胸の前に、支えも無しに漂っている。
 音も無く、頁が繰られていく。
 彼女が手を触れている訳でもないのに。
 彼女はその有様を無表情な瞳で、見つめていた。
 ……あの頁で止まるまで。
 今まで、幾度となく開いた頁で止まるまで。
 彼女は静かに目を瞑った。
 瞑想でもしているかのような、荘厳な沈黙が満ちる。
 本が、自らの存在を強調するかのように、その頁を開く。
 彼女は、ゆっくりと目を開き、呟いた。
 嘆きと悲しみと、そして、揺ぎない意志を込めて。
「変えることは出来るはず……。今度こそは」
 眼前の虚空、先ほどまで映像がうつしだされていた場所に向かって、彼女は、静かにささやいた。
「そうでしょう、エル」

 無造作に扉が開かれる。その前から、階段を上がってくる足音で、誰がやってきたのかはわかっていた。
「おかえり。どうだった?」
 問うクオンに、ジェッターは大仰に肩をすくめてみせた。
「どうもこうも。そんなことじゃないかと思ってたが、現物を見ないことには何とも言えない、だとさ。っていうか、そんなつまらないことでいちいちこの忙しいアタクシの手をわずわらわさないでちょうだいザマスとか言い出しそうなぐあいの雰囲気だったぜ?」
「い、いや、誰だよ、それ。っていうか誰のとこに相談しに行ったんだ?」
「修道騎士団長閣下」
「フィアナかよ!」
「いやまぁ、最初は他をあたったんだが、どうにもこうにも埒があかないんでね。御大を頼ってみたんだが」
「ていうか、フィアナそんな喋り方するとも思えないんだが……」
「しかし現物って言われても困るよなぁ。シエーアが貸し出してくれるとも思えないし、連れ出そうとしても動きそうにないし、御大自ら出張してくれってのもさすがに難しいだろうしなぁ……」
「俺の突っ込みは無視かよ……」
「しかし明らかにおかしいよなあ、シエーア。こんだけ大声で自分のことを話されても振り向きもしねェってのは……」
 諦めて、クオンはため息をついた。
「確かにな。というか、なんかだんだん悪化してるような気もするんだが……」
 うーん、と唸ってから窓のほうを見る。すでに夕陽は聖都の西側にそびえる山地の向こうに沈み、残照だけが町を照らしていた。
「といっても、この時間じゃあ、往診してくれそうな魔法の使い手を捜すってのも……なぁ……」
 視線を少しだけ横にずらすと、その窓際に座ったシエーアの姿が目に入る。手にした黒晶石を見ているのか、それに反射した残照を見ているのか、その茫とした表情からはまるでうかがい知れなかった。


DRR (05.07.12)
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