JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





十周目四番



 赤く涙を流しながら、長くも太い蝋燭が、ぼんやりと陽炎のように揺らめく灯火で、今日も一刻も絶やすことなくその部屋を照らしていた。巨大な柱石が幾何学的な複雑さを持って組み合わされ、不可思議な模様を描き天を支えている。その美しくもどこかしら人を落ち着かない気持ちにさせる多角形のどの辺にも、これもまた距離感を狂わせるような大鏡が並べられていた。ふと、灯火が一瞬濃く影を投げかけたように感じられたとき、その合わせ鏡の向こうに、赤い衣を纏う男達の、密やかに言葉を交わす姿があった。
「《その者》が聖教府に入った。」
「そのようだな。先程、報告があったよ……。」
「流石に、心穏やかにはおられんか?」
「まさか。もう済んだことだ。それよりも問題は次であろう?」
「《鍵》か。」
「ああ。残念ながら捗々しいとはとても言えぬのだが……。」
「案ずるな。その件については、報告が上がってきている。」
「ほう?」
「早いな。」
「例の小僧がな。どこで情報を仕入れたのか知らぬが、ヤーゴに存在するらしいことを言ってきた。」
「それで?」
「どうも、エルフィスなる男が保持しているらしい。それも三つ全てをだ。」
「なんだと? それは本当か!」
「どういうことだ? 《その者》は聖教府に入ったのであろう?」
 静かなざわめきが、まるで春の微風の様にあたりを駆け抜けた。が、それも僅かなときのこと。聖衣を纏う者達は、その地位に相応しいだけの落ち着きと品位は持ち合わせていたようだった。
 再び、秘密を持つ者だけが漂わせる、不合理さの滲む緊張感が周囲を埋める。
「まさか、《その者》が偽者だということか……?」
「グローライトがそのような失態を犯すとも思えぬが?」
「いや、有り得ぬとも言い切れまい。姉の方はともかく、《絆》の方は些か心許無いからな。」
 その言葉には、苦笑とも嘲笑とも付かぬ暗い調味料がまぶされていた。
 一人が、衣の中で肩をすくめでもしたのか、さらさらと衣擦れの音が漏れ聞こえる。
「左様。そもそも、《その者》が聖教府に入ったのであれば、何故《絆》がここに居らぬのだ?」
「確かにな。《その者》に万一のことがあっては困るというに。まぁ、もうその心配はないがな。」
「分からぬぞ? 聖教府なら確かに在野の連中は手も触れられまい。だが、《その者》自身が我らに協力的とは限るまい。」
「なればこその《絆》だ。うぬ。全く、あの小僧め、部下の管理はなっておらぬようだな。」
「困ったものだ。器としての役目、まさか忘れた訳ではあるまいに。」
「だが、そういえば姉の方が、その件をえらく嫌っておったな。」
「まぁ、分からなくもない。魂を封じる為の肉人形なぞ、身内でなくともぞっとする。」
「とはいえ、器がなければ、いざというときに困る。」
「無論だ。《その者》がもし暴走でもしたら、対処のしようがない。禁忌に触れる術ではあるが、世界を救う為とあれば、魂の入替えでさえも必要悪というものだ。神とやらも御赦し給うよ。」
「器としては身体だけ残っておればよいのだ。保存術など幾らでもある。単なる保険とするならば、いっそのこと……。」
 赤い衣から伸ばされた、所々に醜いシミが肌を汚す、細く脆そうな枯れ枝の如き腕。その先を飾る骨と皮だけとなったような震える指先が、見た目からはとても想像し難い、隙のない素早さで首の前を真横に走る。
「やめておけ。あの姉が本気になったら、教会自体が只ではすまぬ。」
「それに、術そのものがグローライトのものだ。我らが手を出すと足を掬われかねぬぞ?」
 ――暫しの沈黙。
 本来、この場を満たすべきそれには、僅かながら恐怖という感情がもれ漂っていたかもしれなかった。だが、倣岸な彼らはそのようなことですらも、許すつもりはないとでもいうのか、すぐに沈黙を追放する。
「話がそれたな。結論から言うと、エルフィスなる者は《その者》ではない。《その者》は、現在、聖教府にいるクオン・ゼナームでほぼ間違いないということだ。エルフィスなる者は、失格者だよ。」
「そういうことか。英雄に成り損ねたという訳だな。」
「哀れなものよ。『巻物』にとりつかれたらしい。それ以外では、十分使えるらしいのだがな。」
「魔法具に呑まれるものに、魔法具は使えんよ。」
「左様。」
「しかし、では何故、《鍵》を保持しているのだ?」
「どうやら、あの小僧が裏で何かしているらしい。」
「ほほう?」
「どういうつもりかね?」
「いささか過激ではあるが、教会への忠誠を知る男だ。少なくともこの段階では妙なことはすまい。」
「まぁ、一段階先に進めるつもりなのだろうな。自らの手で。」
「それとも、あの老人の指図か?」
「あの老人はものを知らぬ。その心配はない。」
「そうだな。」
「我々としては、まずは……」
「そのエルフィスなる者を、せいぜい押さえることにしようか。」
 合わせ鏡が織り成す幻想の向こう側へ、赤い人影が一つ、また一つと音もなくまるで影絵のように消えていく。
 次に、聖域のみに許された赤く泣く蝋燭が己の孤独に震えたとき、そこでは只、鏡が向かいに映る自らの無数の姿を呆然と見つめているだけだった。

 ……そしてまた、陽が沈む。
 張り替えられたばかりの鏡板から、森の緑の香が心地よく漂う。節目一つない美しい木目模様が、明るく光沢を放つ薄い茶色の単調な色彩を、この上ない芸術作品へと昇華させていた。
 深い毛並みの灰色の絨毯を沈ませる、二脚の重たげな椅子に挟まれた、女性でも抱えられるほどの大きさの円卓。その焦げ茶色の卓を調色板とするかのように、紫水晶によって象られた小さくも瀟洒な酒壷と、これは透明な、色を持たぬ杯が七色に光を放つ。
 フィアナ・グローライトが、指導者ではなく一人の人間に戻れる、数少ない場所。聖教府における、彼女の私室で、フィアナはゆったりと何とはなしに斜陽に照らされていた。あらゆる影の長さに目を奪われながら。
 繊細な意匠の凝らされた、水晶製の杯。煌く西日が四方に散る中、神聖さを示すかの如き澄んだ透明さを宿す器の向こう、計りきれぬ程に流されてきた血を思わせる真紅の液体が、不吉に揺れていた。
 指先を彩る赤い影の踊りを暫し味わい、唇を、つける。
爽やかな癖のない香りを嗜む。
 僅かに酸味が漂う芳醇な果実の甘味が、幾分の熱さを伴って喉を潤した。
 「……滅びの色にして命の色……そして……罪の色……。」
 手にした赤の果実酒を、悪戯に燻らせながら、白の聖女はその視線を杯よりも先へ、過去へと泳がせた。――数日前の出来事へと。

 その日は、よく晴れた一日だった。
 『女神の涙』の涼しげな湖面はまるで鏡のように波一つなく、白く幾何学的な美しさを宿した街並みが逆しまに映し出される様は、絵画の題材として十分耐えうるもののように思ったのを憶えている。
最初に口を開いたのは、私だった。
「お久し振りですね、クオン。」
 目の前、執務用の机の向こう側に所在無げに佇むのは、些か気圧されたかのような、硬い表情を浮かべる少女。副官や高位騎士には下がるように言ったが、「払暁の間」に通したのは、強圧的な印象を与えてしまっただろうか。しかし、その隣に立つクオンと、二人の後ろで、物珍しげに部屋を見回す盗賊上がりは、ごくごく自然な立ち居振る舞いを見せている。クオンは王族の前に立ったこともあることだから、当然として。後者については、隙のない目つきから察するに、何かしら物色しているのかもしれなかった。
「ああ。まぁ、なんだ。お互い無事に再会できて何よりというところか。」
「そうですね。」
「……。」
「……。」
 暫しの沈黙。
 クオンは、どうやら言葉を選んでいるようだった。彼は、決して多弁というわけではない。それだけに彼の言葉は、注意して聴く必要がある。特にこのような場面では。
 だが、実際に先に口を開いたのは、巨躯を誇る宿命の者。その男、ジェッターならば確かにあり得ることではあった。この男は、世俗の者としては、何故か教会というものに詳しいようだ。それだけに構えるところがない。いや、或いは構えるべきところを知っているというべきか。
「で、御用の向きってなんですかねぇ……修道騎士団長閣下?」
「御用の向き、ですか?」
「いや、わざわざクオンにこの名高き聖都に来るように仰ったくらいだから、それなりの理由があったんだろうなと、愚考した次第であったりするんですが」
 知らずに笑みが浮かぶ。
 人は『慈母の微笑み』と大層な呼び名を付けてくれているようだ。
 ふ。慈母とは本当に嗤わされる。聖職者であれば、皆、聖女であり慈母であるとでもいうのだろうか? 数知れぬ『咎人』という名の犠牲者達の血に、この手を染め上げてきたというのに。白き手。血の色を純白の虚構で上塗りした、穢れ果てたこの手。それでも、私は人を前にすれば微笑まずには居られない。全てを隠しさる、感情なき万能の仮面。そう。どのようなときでも、まず笑みを浮かべてみせることを第二の天性となしているのが、私という人間の、我ながら度し難いところだった。
 それにしても……私はこの場で、彼らに何を期待していたというのだろう?
 一言も言葉を尽くすことなくとも、彼らが事態を把握して、私の期待した役割を果たしてくれるとでも? そうすれば、私の背負う罪が軽くなるとでも? 馬鹿な。
 語るべきことは語ろう。それが例え全ての答えたり得なくとも。彼らには、少なくとも、ある程度は知る資格が十分ある。
「そう……そうですね。クオンには知っておいて頂かなければならないことだけでも、話しておくべきですね……。」
「あ、やっぱり。理由なしって訳にはいかないんですなー」
「ええ。残念ながら。理由なくしてこの『払暁の間』に入ることが出来る人間は多くはありません。大抵は罪人ということになりますが……。」
「おお、怖い。まさか、我々を断罪するつもりはないでしょうねぇ?」
「お望みであれば。」
「流石は『白き手の』フィアナ卿というわけですなー。いや、丁重に辞退申し上げましょう。ちゅーか、そゆことならクオンを推薦しときますよ。今ならうちのシエーアもおまけしときますが、如何でしょー?」
「な、な!」
 漸く呪縛が解けたかのように、あの男の妹が声を上げた。口をぱくぱくと動かしながら無言ながら激しく抗議している。実に表情豊かだ。この娘は本当に見ていて飽きない。願わくば、その天真爛漫さが、失われることのないように……少なくとも、この世界が滅ぶときまでは。
「それはお得ですね。もう一声と言いたいところですが、何やらお二人の視線が痛く感じられますので、本題に戻ることに致しましょうか。」
 私は久方振りに目にした、凡庸ならざる戦士を見やった。
「今更と、あなたは思うかもしれませんが。我々……教会は、あなたを重要な人物であると見做しています。クオン。」
 私は席を立ち、机の前へと回り込み、彼らの座する長椅子の傍へ歩み寄った。影が、ゆっくりとその位置を変える。
「あなたは、世界を救う者……そう、陳腐ではありますが、一番近い言葉をあげるならば、救世主とでもいいましょうか。或いは勇者と呼ぶべきでしょうか。教会では《その者》と呼んでいますが……とにかく、その能力を持つ人物であると判断しているのです。」
 クオンの表情は、特に変わらなかった。僅かに、面白そうに思う光が目をよぎったかもしれない。
「巻物は、これより後に起こるであろう大災厄に対処する力を、まさにその力たるべく導く為の道具です。一度それを手にし、そして道を誤ることなく、災厄の始まりを迎えようとしているあなたは、その『力』としての資格があります。」
 そう。
 あの子に『絆』としての資格があるように。
 ……あの機械の音が、聞こえたような気がした。やがて、時が来れば、彼には『鍵』を手にしてもらわなければならない。だが、開かれる扉は、彼によって選ばれることはないだろう。
「大災厄……巷に溢れる、胡散臭い予言とやらは、色々と耳にしてるが……実際、それはどんなものだ?」
 一瞬の空白を埋めるかの如く、クオンは、この部屋に入って初めて口を開いた。私の目を真っ直ぐ見つめて。
「具体的にお教えすることは、私には出来ません。想像することは可能ですが、確たる答えが分からないのです。教母猊下なら或いはお答えをお持ちかもしれませんが……」
 大いなる災厄。それは恐らく、瞬く間に文明を破壊し、人間という種そのものを存亡の淵に立たせることだろう。具体的な形を持たない、天の意思として。ある街は津波に飲まれ、ある街は地割れに沈み、そしてある街は炎の下に沈むだろう。或いはこの紅に彩られた遊星の纏う瘴気に侵され、病に滅び行くだろう。それとも、四方に満ちる禍々しい気に力を得た闇の眷族どもに、飲み込まれるのだろうか。そう、それは『紅亡の星』という、本来、我らの属する星々の体系から外れた闖入者が齎す、天災なのだ。
 この想像を絶する長い周期を経て訪れる紅い忌み子は、来訪の度に、世界を混乱と絶望の底へと陥れてきた。過去には、そのあまりに巨大で、あまりに異質な力の影響ゆえに、異界への扉が自然に開かれたこともあるという。現在、この世界を闊歩している『生ける死者』等の魔なる存在は、実はそのときにやってきたのではないかと考察する論文も、神学院の一部門では長く研究されていた。
教会はこの災厄を回避すべく魔法装置を守ってきた。
 そして、この災厄を回避できるのならば、どのような代償も厭いはしない。
 何を為すにせよ、全ての事象は須く代償を要求する。それはこの世界の数少ない真理の一つだ。ならば、私もいつかは払いきれぬ負債に苦しむことになるのだろう。だが、それは少なくとも今ではない筈だ。
「ですが。少なくとも、あなたには『三つの鍵』を手に入れて頂かねばならないことだけは分かっています。」
「三つの鍵?」
「はい。『三つの鍵』とは、古より伝わる三振りの剣のこと。一説には『過去』『現在』『未来』を意味するらしいのですが。」
「うーん。なんか御伽噺の延長という感じだな。」
「ええ。実際には、あなたという『力』の一助になる魔法具です。実際には全然違いますが……まぁ『巻物』と同じようなものと思って下さって構いません。」
「で、手に入れて、具体的にどうするんだ?」
 私は、密かに息を吐いた。
「――『扉』を、開けて貰います。」

 黒い宝石を見入るシエーアは、放っておくと、ずっとそのままでいるのではないかと思わせる異常な雰囲気が感じられた。まずは休ませようということになって、ジェッターにシエーアを連れて行かせると、クオンは大きな溜息をついた。
 安らぎに満ちた柔らかい暗闇が、山の裾から徐々に這い登り、遂には天を覆いつくしている。室内を照らすのは、いつのまにか黄皇の月の温かみある輝きに代わっていた。
 蝋燭を点す気にならず、クオンはぼんやりと今後のことに思いをはせた。
 フィアナの話を思い出す。
 ――フィアナは、直截的だった。彼女は、クオンの見るところ、ほとんど真実を語っていたように見えた。まずは、教会が隠し持つ、『大いなる災厄』を退ける為の巨大な魔法装置の存在。
『クオンには、その魔法装置の一部となって、『災厄』と対峙してもらうことになるでしょう。』
 相変わらず、魔法に携わる者達の言うことはよく理解出来ないことばかりであったが、つまりは、クオンに魔法装置を動かせということであるらしい。
『この装置には色々な機能が備わっています。が、その主たるものは、『退災』即ち『大いなる災厄』を退けることです。』
 具体的には。異界から膨大な『力』を引き出して、それを『紅亡の星』にぶつけて破壊する。そうすることで、
『しかし。残念ながら機械だけでは、異界への扉をこじ開けた上にそこから膨大な無限ともいえる魔力を引き出し、導き、蓄積し、制御することを同時に行うことは叶いません。』
 では、どうするか。
 それが可能な天与の才を持つ人間を探し出し、この魔法装置に組み込めばよい。シエーアやフィアナのように、魔法を得意とするものは、自らの努力の他に、生まれながら持つ才能を持っている者が多い。その才能に最も恵まれた者ならば、或いは――。
『成程、言わんとすることは分かった。だが――。』
『心配は無用です。その為に『巻物』があり、妹が……ティオレが居るのですから。』
 才能は、一定の基準値に到達していなければ意味がない。逆に言えば、一定の基準値を満たしさえすれば、その人物は見込みがあるということだ。例え、魔術の勉強をしたことはなくとも、才能というのものが消え去ってしまうことはない。それは花開く日を待って、ただ眠りにつくに過ぎないのだから。
 その隠された才を推し量る基準値たる役割を果たす道具として『巻物』は存在するのだという。『巻物』は才能ある者を自ら捜し求め、その者の手に移ったならば、直ちに保持者を試すのだそうだ。
『あなたは、全ての試験に合格した優等生、と言ってもよいでしょう』
 勿論、『巻物』だけで全てが判断されるわけではない。その保持者の人為、判断能力、自制力や適応能力といった精神的なものから、戦闘能力、耐久力といった肉体的なものといった、あらゆる側面からの実力を測る為に、その専門の訓練を受けた判定者が派遣される。その役目を担うのがティオレ。ティオレ・グローライト。黒衣のクラリック。やはり、最初に感じた違和感は、間違いではなかったのか。ほんの少し、クオンは落胆の念を覚えざるを得なかった。
『優等生ねぇ……オレからは最もかけ離れた言葉だと思うが……』
 そこで、フィアナはあの笑みを浮かべた。
 あの、あまりに優しく、あまりに気高い慈母の微笑を――。彼女が、それを武器としても使っているのは明らかだった。
『《三つの鍵》が揃えば、《扉》を開けて『力』を引き出す準備が整います。ですから――。』
 思わず鼻をならしてしまう。クオンは、少々高めの背もたれにだらしなく寄りかかり、頭の後ろで手を組むと、テーブルの上に足を投げ出した。
「『ですから、《三つの鍵》を手に入れて下さい。その場所は私達が調べます。長くは掛からないでしょう』か、どうせなら全部そろえて進呈しろっていいたいね。まったく。」
 実際、言おうとしたのだが、それよりも彼女の次の言葉に気をとられ、機を逸したのは不覚というべきだろう。或いは、彼女の策士ぶりが見事だったというべきか。
「――そういえば。言い忘れていましたが、ティオレがこの町に向かっています。」

 結局。
 クオンは、フィアナに協力することにした。仕方がない。そういう道を歩むのが、オレという人間なんだろう。まぁ、なんだ。先のことはともかくとして、ここまできて何もせずに帰るというのはつまらないし、何よりも――。
 そう、何よりも。
 気付いてしまったのだ。
 このままでは、聖都を離れられないということに。
 思ってしまったのだ。
 あの黒い瞳に、今一度会いたいと。
 あの、夜を固めたような美しい艶やかな黒髪に触れたいと。
 あの、愛想がない声を聞きたいと思ってしまったのだ。
 黒衣に身を包んだ聖女。
 彼女との……ティオレとの出会いには、そうするだけの価値があったのだと、気付いてしまったのだから……。
 そして。
 あの場で、フィアナが最後に口にした、姉としての言葉。
『あの子は、ティオレはどのようなことがあっても、必ずあなたを守るでしょう。だから……だから、クオン。お願いです。あなたも、ティオレを守ってやって下さい。たとえ何があったとしても、たとえ何者が敵に回ってしまったとしても……。』
 あれは、フィアナの真摯な心からの言葉だったとクオンは思った。
「ふ。言われるまでもないな」
 ティオレが、ここへ来る。
 間も無く。
 思えば、随分と顔を見ていない。
 クオンは、知らずにだらしない笑みを浮かべながら、そのまま椅子の上で目を閉じた。

 ――残照の眩い紅、そのやがては闇を齎す不吉さの向こうに。
 視線を感じた。
 忘れる筈のない、あの視線。
 数え切れぬほどの星霜を重ねる間に、直接交わすことはなくなってしまった、あの視線を。更にその昔には、数え切れぬほどに交し合ったあの視線を。
 ああ、遂に、彼女と会う時が来るのだ。
 このいとおしい世界で、唯一人、私という人間を理解し、また私も理解している相手――。
 嘗て私は、この世界を、この世界に住む人々を救う為ならば、手段を選ぶつもりはないと言ったことがある。それは、必ずしも憂う人々に受け入れて貰えるものではなかった。が、その意を汲み取り、その意の実現の為に、力を尽くしてくれる者がいた。唯一人の、共犯者。時の流れに身を任せることを捨て、共に終わりなき終わりを終わらせる為に歩むことを選んでくれた掛替えのない彼女。
 彼女は、感じているのだろう。私と同じく、遂にその時が来るのだということを。
 彼女は、感じているのだろう。私には出来なかったことを、遂に成し遂げてくれる者が現れたのだということを。
 彼女は、感じているのだろう。私が、私達が歩んできた道が、決して無駄なものには終わらないのだということを……。
 決して、短くはなかったと思う。
 決して、楽ではなかったと思う。
 だが、彼女の見つめているであろう、あの本の頁が、その先へと進むというのであれば――。
 ――彼女が、理解の意思を送ってくる。
 あの星の色。炎の色。流された血の色。
 そして、今では彼女の纏う衣を彩る、あの色。
 私と共に、その色を身につけ、私と共に歩んでくれた彼女に、彼女だけに伝わるよう私は共感の頷きを返す。
 あと、少しだ。
 私は、新たな《絆》を連れて、新たな 《その者》に再会するだろう。
 人が幾つもの世代を重ね、教会という組織がその原初期の役目を見失ってしまう程の長い時の後。
 漸く、巡りえた我が愛しき後継者。
 開かれる扉は、開かれるべき扉は、そこにある。
 「全ては、終わらざる終わりを、終わらせんが為に……。」
 その呟きは、だが、声にならずに、涼しさを湛え始めた忍び寄る夜気に溶け込んでいった。

 扉。
 何の変哲もない、普通の木製の扉。
 隣にいる、赤髪の魔術師が酔いに任せて術を唱えれば、跡形もなく燃え尽きるであろうし、後ろにいる少々人間関係構築能力に難ありの娘が短気を爆発させれば、木っ端微塵に吹き飛ぶであろう。
 だが、この扉は彼女自身にとっては特別なものだった。
 そう。
 この扉の向こうには、仲間がいる。
 久し振りに会う仲間。
 クオンがいて、ジェッターがいて、シエーアがいる。
 エルには、もう会えなくなってしまったが、会いたいと思う仲間達は、まだ、この向こうで、彼女を待ってくれている。
 ……待ってくれているのだろうか?
 少し、自信がなかった。
 だが、気にすることはない。
 遂に、ここまで辿りついたのだ。思わぬ回り道をした気もするが、遂に。漸く。
 トレートティースという地で出会った、《その者》とその一行。
 教会の一員としては、そういう無味乾燥な表現を使うべきなのだろう。
 《絆》たる身としては、そのように付き合うべきなのだろう。
 だが、短い間ではあったが、彼らと共に行動したという事実は、彼女に何かを齎していた。
 本人もそれと気付かないうちに……。
 それが、今この場で彼女を躊躇わせる。
 単なる扉、それを目の前にしているというだけだというのに。
 この扉を押し開ける。ただ、それだけのことなのに。
 なんと、黒の聖女と呼ばれる驚くべき戦闘能力を誇る女性神官は、緊張して次の一歩を踏み出せずにいたのだ。
 横では女魔術師が、笑いを堪えるのに必死になっている。というか、堪えられずにくっくっと苦しげな息をもらしているのが、腹立たしい。後ろからは、あからさまに退屈そうな溜息らしきものが聞こえてきた。
 戦闘時に匹敵する精神的圧力!
 或いは、この新たに知り合った少々妙な二人が、このような彼女に変えてしまったのかもしれない。それが良いのか悪いのか、自分で判断するのは避けるべきだろうが、少なくとも、常につまらないという気分からは対極に位置することが出来ていたことは認めよう。
 ここへ戻った以上、クオンの傍らに戻る以上、今後は今までのような旅は最早、期待できない。
 彼女達には、最後の旅を豊かなものにしてくれたことを感謝すべきだろう。
と思ったところで。そんなしんみりとした気分を一掃するからかいの声が、赤髪女から発せられた。
「ほらほら、ティオレちゃん。いつまでもボーっしてないでさ。みんな、疲れて座りたい気分なのよー?」
「勝手に他人を含めて欲しくない。」
「んん? 何か言ったかな、この口が。この口が!」
「いひゃっ。ひゃにゃたひゃらへをひゃふとはひひどひょうふぇ」
 どこかで見たような賑やかな光景。
 安心したように、頬に僅かながら笑みを浮かべると、そのまま横で繰り広げられる騒動を気にせず放っておいて。
 ティオレは、ついに扉の取っ手に手を伸ばす。
 そっと、自信なさげに。でも、喜びを隠し切れずに。
 そして……。


artemis (05.07.21)
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