JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





十二周目一番



「周囲の封鎖、完了致しました。」
「どの程度、残っていますか?」
「そう、百数十というところでしょう。」
「善良なる教徒は、残されているようなことはありませんね?」
「は。何れも、法を犯すようなならず者、教母猊下の庇護を受けるに値するような輩ではありません。確認は何重にも。万が一にも、間違いは……。」
「……そう。」
 フィアナは、ふと天を見上げた。
 月の無い、深夜。僅かに冷たい風が、そよと湖の方から吹いてくる。その身体を撫ぜる様な感覚に、思わず知らず身震いが駆け抜けた。その芯を寒からしめるような違和感を振り払いたくて、自らの右手で白い法衣の上から、そっと我が肩を抱き、肌の温かさを確かめる。まるで、地の底から縋り来る怨嗟と断罪の声から、逃れんとするが如くに。
 一瞬閉じた瞼を、再び、ゆっくりと開くと、その視界に広がるのは、全てを飲み込み、溶かし、渾然一体としたこの世ならざる何かに作り変えようと待ち構えているねっとりとした黒。無数の天の灯火も、勢を競う三つの夜の支配者達も、そして、あの不吉なる紅ですらも悉く隠し去る、不純なる闇。どこまでも広がる暗い曇天は、或いは遠くトレートティースの辺りでは鮮烈な雷光に貫かれているのかもしれなかった。
 そろそろ、この雲の白布をもって蒼天を覆うように、真実を民草から覆い隠す幻想の白布が投げかけられるかもしれない。古の世からの繰り返し。
 フィアナは思う。
 たとえ、その行き先に破滅しか見えなかったとしても、人々は真実を知り、自らで道を切り開くべきなのではないか?
それとも、一握りの尊い犠牲によって、それと知らずに守られゆくべきなのか?《絆》と《その者》によって?
 ……何れにせよ。
 唇をぎゅっと噛みしめる。
 自分自身の行くべき道は、決まっている。そう。一度として揺らいだことは無い。迷ったことは無い。最初に、想い定めたその日から。
 その為ならば。
 フィアナは、視線を、足元に跪く部下に戻した。
 左右の側近が掲げ持つ松明の焔に、白銀の鎧がゆらゆらと燃えるかのように照らし出されていた。その微動しない肩の向こう、聖教府の街の終わり、イスティーアの外縁部の見捨てされた一画へと続く道が延びている。そこには、彼女と対立する勢力の一つが、密かに居を構えているのだった。
 我が前に立ち塞がりし者は、悉く排除せねばならない。何者であろうとも。
「……とはいえ、ここが彼ら、彼女らとの最後の戦場には、なりはしないのでしょうね……。」
「……は?」
「いえ。なんでもありません。……そろそろですか?」
「はい。閣下、ご命令を……!」
 フィアナの独り言に、僅かに上げた面を、再度、心からの尊崇の念と、恭順の意を込めて伏せ気味にしながら、精悍極まりない表情に、興奮の血を上らせながら、壮年の修道騎士はそれでも冷静に、己よりも遥かに年若な我が君の決断を請うた。
 傍らで炎が跳ね踊り、ぼうっと音を立てて一際強い光を放った。
 その橙の淡い灯火を背に。
 フィアナの視線が、別人のように鋭く冷たく研ぎ澄まされる。
 万人に教会の権威を知らしめるべくそうするように、すっくと威儀を正した彼女は、いっそ苛烈なまでに高々と言い放った。
「よろしい。聖教府直衛修道騎士団に対し、修道騎士団長フィアナ・グローライトの名において命ずる。神聖なりし聖教府の一隅にすまい、畏れ多くも教母猊下の宸襟を悩ます不逞の輩を、一人たりとも見逃すことなく捕捉しこれを排除せよ。生死は問わぬ。必ず、教律にまつろわぬ者らを一掃し、聖教府の秩序を乱すの愚を広く周知し、聖都に住まう数多の教徒の生活を安んじからしめるのだ! 行けっ!」
「はっ! 必ずや御命令を完遂して御覧にいれましょう! 聖教府直衛修道騎士団、前へっ!」
 白い洪水が、不気味な、だが調子の統一された単調さを命題に大地を楽器として奏でる音の波を伴奏に、一斉に街の外れを目指して流れ出す。招かれざる身でありながら、土足で聖教府を侵した罪を、彼らは必ず断罪するだろう。たとえ、どれだけの犠牲を強いられることになったとしても。
 数は決して多くなく、軍と呼ぶには規模が小さきに過ぎるとはいえ、それは間違いなく行軍、教会の名の下に行われる軍事行動であった。
 フィアナは、その聖職者と呼ぶには些か威圧感の勝り過ぎ、無骨さが目立ちすぎる見るだに頼もしくも恐ろしい夜の行軍を、無言で見送る。
 ――かの魔術師達の狙いが、究極的には教会の目指す未来の扉を閉ざすことにある以上、彼らは必ず聖教府を訪なわざるを得ない筈。それは予測の範囲の出来事であり、愈々『そのとき』の迫る今となっては、避けえない確定事項と考えてはいた。が、まさか、いきなり要職にあるわけではないとはいえ、教会に属する聖職者を死に至らしめるとは思っていなかった。それも大胆なことに、聖教府内において。こうなっては、教母の身辺の安全を預かる最高責任者でもある修道騎士団長たるフィアナとしては、到底看過する訳にはいかなくなってしまう。
 或いは。こうして、フィアナの行動を間接的に掣肘することこそが、彼らの目的であるのかもしれない。
「……だとすれば、随分と見縊られたものです。」
 如何なる策を用いるにせよ、彼らは、私の、いや教会の行動に影響を与える為には、どのような形をとるかはともかく、まずは聖教府に来るしかあるまい。その一点さえ分かっていれば、対処など実に簡単なことだ。
「私は、東の塔に戻ります。後は任せましたよ?」
 その場に残っていた高位の騎士達に告げると、彼らの応えを待つ暇もあらばこそ、彼女はすっと姿を消した。
 
 やれやれ。
 慣れない仕事はするものではない。
 それが、自分にとって不向きなもの、不得手なものならば尚更だ。
 嘆息が、人々に見捨てられた古く荒れ果てている古屋敷の奥の、これは広さだけは十二分に使用に耐えるというような部屋で、夜の静寂を僅かに乱した。
 「『地』のヤツがやってくれれば、このような面倒な真似をせずともよかったのだが。」
 本来の任とは些か毛色の異なる作業に没頭せざるを得なかった男は、忌々しげにというよりは、苦笑するようにして溜息をついた。扉の向こうから、様々な破壊行動の騒々しい雑音が漏れ聞こえる。魔術により強化補強された壁の向こうのこととて、大した騒音ではないが、こうして耳に届いてくる以上、実際にはこの家そのものの解体作業が暴力的に刻一刻と速やかに進められている状況であったとしても、驚くには値しまい。
 まったく。流石に『地』が編み出した儀式魔術だけあって、緻密でよく練られている。だが、それだけに長時間の術式実行に耐えうる強靭な精神力が必要だ。複数の魔法具を媒介にする強力ではあるが複雑極まりない、こうも迂遠な術を行使していては、足元すら覚束なくなってしまう。床に描かれた複雑な文様で織り成された陣ですら、彼には忌々しく感じられる。自由気儘、即時即応を旨とする『風』とは術の毛並みが明らかに異なる。苦手には思っていたが、ここまでとは我ながら呆れるというものだ。これほどの大規模な軍事力の接近を、如何に相手が迅速且つ見事なまでに隠密裏に動いたとて、感知できなかったとは……。本来、戦場での働きこそを最も得意とするクレイトンとしては、この上なく不覚であったと思わざるを得ず、同時にこの上なく無念に感じざるを得なかった。あまり、騎士という称号に誇りを感じていない身ではあったが、それでもこのような状況では、あまり量的に充実しているとはいい難い鋼の自尊心にも、多少なりとも傷は付こうというものであった。まぁ、当然、向こうにしても隠蔽用の魔術等を多分に用いてはいるのだろうが、それにしても、許されえない失態であることは否定しようの無い事実である。
 とはいえ、このときの状況を外側から見てみれば、クレイトンは案外と善戦していた、といえたのかもしれなかった。手勢は攻め手とは比することが馬鹿馬鹿しくなる程の少数。地の利は皆無といって良いほどに無い。そもそも廃墟に近い状態の捨て去られた古屋敷が、戦闘に耐えうるものではなかった。加えて、白銀に輝く鎧に染み一つない外衣を翻させる、極めて意気軒昂な名高き魔術と戦闘の専門家集団に不意を撃たれ、不本意というよりは半ば以上反射的に防衛本能で迎えうっているという事実を考慮すれば、瞬時に全滅させられなかっただけでも十分に役目を果たしているといえるかもなと、自嘲めいた笑みを浮かべながら、クレイトンは皮肉な思い、苦い満足感を胸いっぱいに吐き捨てるほど抱きながら考えた。とにかく、あとは多少なりとも時間を稼げればよしとしよう。幸いにして、術は完成した。あと少し慣らす時間がとれれば、この場での目的は完遂される。
 それはそれとして。この場所が知れるのは当然と考えてはいたが、まさか、間髪居れずというところまで早くに知れるとは、否、知れてすぐに攻めてくるとは想像していなかった。何れは司直の手に渡ることを考えて、あくまで一時的な拠点とすべく、手を打ってはあったが、これでは次の拠点へと移す間もない。本来、魔術を得手としないクレイトンとしては、文字通り、虫すら逃げる隙もない布陣・数重の術で固められているであろうここからは、逃げ出すのは難しいところだった。このような状況になったのでは、聖教府に潜入した筈のセレンティアの方の仕儀についても不安に思わなくもないが、まずは自分の方を片付けるべきであろう。
 クレイトンとしては、教会の中枢の様子を暫し探った後、フィアナを聖教府から引き離し、可能であれば、クオン・ゼナームを教会と敵対か悪くても中立の立場に立たせる。最悪の場合は、クオンを倒し代わりにエルフィスを利用して、教会が独占し秘匿するかの魔法装置を我々の制御下に置けばよかろうと、獏然と考えていた。残念ながら、元々、かの装置を作り上げたという先人達の知識は、全てが受け継がれている訳ではない。ひょっとしたら、遠隔地より人間を介さずに装置を動かす方法もあるかもしれなかったが、そのような手段は、今となっては夢物語に等しい。となれば、彼らとしては、どうしてもこの敵地も敵地、敵の本拠たる聖都イスティーアに来ざるを得なかったのだ。魔法装置の眠る、この嘗ての火刑場に。火が炎に呑まれ、四大より欠け去った、始まりの地へ。
 さて。
 ほんの一時の、自分らしくないと本人が感ずるところの少々感傷的な物思いから、なかなかに冷厳な現実へと彼を連れ戻してくれたのは、無粋にも溢れん程に迸る殺気であった。その瞬き一つするかしないかの後、明確には焦点を結んでいなかった視界の隅で、荒々しく扉が吹き飛ばされるのを認めると、クレイトンは如何にも多くの修羅場を潜り抜けてきた歴戦の兵らしく、周囲の現況と、対峙する敵との間合いを計りながら、ゆったりと腰の得物に手をかけた。
「ふん。数重に防護魔法を施され、数多に罠を巡らしてはいても、所詮は東屋か。それとも、流石は名高き修道騎士、小細工がきく相手でもないということかな。」
 先頭をきって切りこんで来た、重装の騎士に油断無く視線をやりながら、対照的に軽装の騎士は言葉を漏らす。
 踏み込んできたのは、おそらく相当の手練と目される、青年と呼ぶのは贅沢が過ぎるだろうと思われる男。上げられた兜の面覆いから、僅かに覗けるその瞳には、迷いの無い力ある光が満ちていた。その純粋だが倣岸な輝きが、二つながら振り向き、クレイトンとその傍らの少女を認めると、剣呑に細められた。続いて、裂帛の気合を宿して声が飛ぶ。
「至聖なる教律にまつろわぬ咎人よ、いと白き手の御前に頭を垂れよ! 教会の名の下、修道騎士団は汝を断罪する! 降伏せよ! さすれば教母猊下の慈悲も下されようぞ! さもなくば、正義の剣が汝の頭を地の底へと叩き落とすことになろう!」
 芸のない、定型文。
 机を一つ挟み、突きつけられた冷たく輝く鋼の刃。
 その大剣の向こうからは、更なる踏みしめらる軍靴の響き。
 最早、この部屋より奥に逃げる道もない。
 ふむ。
 横にいる、無言の少女をちらりと見る。
 その表情は、凪いだ女神の涙のように何一つ感情の動きがみられない。ただただ、冷静というよりは冷徹そのものといった風な澄み切った瞳が、鋭く目前の敵を、修道騎士を観察していた。……まるで、眠りを無理に覚まされた猛々しくも狡猾な野獣のように。
 その胸に鈍く輝くは、稀なる貴石、魔なる力を宿した黒晶石。夢見の姫を飾る、黒の宝玉。大地の瞳。
 クレイトンは、心の臓が数度脈打つ間、思案した。
 ――これこそ、労せずして相手の懐に入り込む好機というものではないか?
 折角、苦労して呼び寄せた手駒。
 今使わずに、いつ使う?
「……はてさて、どうしたものかな?」
 目覚めた獣が隠し持つ牙と爪は、果たしてどれほどの鋭さを宿しているものか。
 あまりにも生真面目な、融通無碍とは対極的な目の前の存在に対して、クレイトンは、些か緊張感に欠けた気さくとすら表現しうる口調でそう言い放つと、にやりと不遜に笑みを浮かべた。

 暗鬱な闇の迫る窓辺。
 その向こうを占めるは、光一つ無い広大な空間。より近く窓辺に歩み寄り、角度を変えて見れば、更にその先の硬質な黒さの宿る一帯に、人々の原初の恐怖に対する武器の煌きが微かに、力ない最期の足掻きを思わせる弱々しさで点々と散らばって見えた。その光の存在の境界線をもって辛うじてそれと知れる夜の湖面は、『女神の涙』という陽光下の呼び名の典雅さを、どこまでも深い懐の底にすっかり呑み込んで、ただただ黒く波打つ、何かしら異界の巨大な生き物めいた生々しさ漂う不気味極まりない物体のように塔の下に広がっている。
 修道騎士団長の執務室である『払暁の間』では、その部屋の主であるフィアナが只一人、執務机の上に青白い焔となって輝く決して消えない魔法の灯火に照らされ、窓の向こうを眺めながら黙然と佇んでいた。
 この、眼下の黒い湖は、一つの防御幕だ。大軍の接近を阻み、城塞ともいえる聖教府を更に堅く守る。この聖教府に正面以外より突入する方法はほとんど無い。そう、例えば、空を飛ぶなどしない限りは。無論、そのような状況も想定して、この聖教府には備えがされている。日夜、見張りの聖職者が立てられ、常に監視の目を光らせている。当然、その中には精鋭たる修道騎士も含まれている。或いは、『力』を行使することに長けた高位の者が、特に術を用いて侵入を阻むようにもされてはいるが、どうやら、真の実力者の前には無駄に等しいのかもしれない。そう、それは例えば、フィアナ自身。例えば、背後に佇む彼女。
 ふんわりと、南国の果実を思わせる、あまやかな、だが爽やかさを失わないそこはかとない香りが、フィアナの鼻腔をくすぐっていた。
「翠の香り……ね。」
 独白というには、その呟きは、少々、高く響きすぎた。
「……ええ。殿方には、好まれる方が多いとか。巷では人気ですのよ?」
「そう……。でも、私は嫌いです。」
 寸刻前であれば、絶対にある筈のなかった応えに対し、フィアナはそう言い切ると、まるで舞踏でも踊るかの如く優雅に振り向くが早いか、有無を言わさず掌に召喚した緑に輝く炎球を投げつけた。だが、それは確かにその先に存在していた人影に呑まれたかと思うと、人影もろとも霧散して完全に消え去った。
 が、次の瞬間、再び、今度は窓の前に、人影が像を結んだ。
 まるで、何もなかったかのように。
 フィアナは、そちらに向けて静かに微笑んだ。
 闇を背景に、笑みが返される。
「……あなたには、玄関というものは不要なようですね?」
「土足で大変失礼致しますわ、指導者フィアナ・グローライト卿。それとも、修道騎士団長閣下と申し上げた方がよろしいですか?」
「どうぞ、お好きな方を。」
「では、グローライト卿。深夜に訪うご無礼を謝罪致します。申し遅れました、私のことはどうぞ『セレンティア』とお呼び下さい。」
 霧を思わせる水色の薄絹を軽やかに身に纏った女魔術師は、その所作はおろか、言葉にさえも華やかさを漂わせつつ、生まれながらの貴婦人の如くに完璧な礼をしてみせた。
「それにしても、見事な炎術。『火』としてお迎えしたく思います……と申し上げましたら、受けて頂けますか?」
 悪戯っぽい笑み。
 それを受けて、フィアナは、ぴくりと眉を微かに動かした。
 炎術に見えて炎術ではない、特異な、忘れ去られて久しい秘術であったが、それを見越した上での揶揄の言葉。瞬時にそれを見て取って対応した側も、更にそのことを察知した側も、何れも優れた洞察力、才覚に恵まれているのは間違いないだろう。
「お招きの言葉、ありがとうございます。でも、その座はある方が占められたままの筈。たとえ、今はあなた方と袂を分かち姿をくらましたとはいえ、私如きでは埋まりますまい。丁重にご辞退申し上げます。……でも、そうですね。『水』としてなら、或いは代役を務めて差し上げられるかもしれませんけれど。」
 あくまで穏やかな応え。
 その裏に秘められた恫喝。
 双方の浮かべる笑みの下、緊迫感のない緊張のようなものが張り詰める。
 齎される暫しの沈黙。
 ――先に、緊張を解いたのは、闖入者の方だった。
「それは、とても残念ですわね……。」
 肌の白さが、ほとんど光の無い薄暗い室内で、幽体の淡い輪郭のように目を惹いた。
 艶めかしく言葉を紡ぎだすは、褐色の髪を流した妖しくも美しい美貌の中で、最も目立つ真紅に眩い官能的な唇。年の頃は三十に届かぬ頃か。男ならば虜にされずにはいられないであろう、誘うように潤んだ瞳の向こうに、確かな知性が隠されているのを、フィアナは見て取った。無論、そのような確認をせずとも、この部屋に一人で立ち入る以上、その力量に疑うべき点があろう筈はなかったが。
 フィアナの汚れ無き、母性溢れる美しさに比して、このセレンティアは、成熟した、あらゆる快楽を齎すであろうことを期待させる、退廃の香り漂う抗い難い魅力を放っていた。男によっては、後者に親しみを憶えこそすれ、前者には触れることすら躊躇うのではなかろうか。
「……それで? 私にはどういった御用件ですか?」
「大いなる災いを前にして、それを迎え撃つ人々同士がいがみ合うのは、あまりにも不毛。そうはお思いになりませんか?」
 そう、問うと、この妖艶という表現を十分に満足させた美女は、さらさらと水色の衣擦れの音をさせながら、窓枠に手をつき、半身を預けるようにして、フィアナの方を見つめた。
「あなたが、それを仰るのですか? マルカム……あの誠実で実直な者、説教する身ではないとはいえ、仮にも聖職者たる者を手にかけていながら?あのようなことがなければ、彼はささやかかもしれなけれど、平穏な老いを迎え、幸福の中、天へ召されることとなったでしょうに……。」
 フィアナは、作り物ではない、真の悲しみをその瞳に宿らせ、静かに言った。
「あれは、私ではありませんよ、騎士団長。」
「確かに、あなたが直接手を下したわけではありませんね。それは分かっています。そうでなければ、あなたは今、私の前で話してはいない。修道騎士の聖剣に向かい命乞いをしている筈です。」
「あれは……悲しい事故でした、グローライト卿。自らの《力》に飲み込まれた哀れな《資格者》の、悲しみの発露とでもいうべきものです。あなたの傍に侍る、クオンなる者が、ひょっとしたら辿っていたかもしれない、或いは今まさに辿りつつあるかもしれない無情な道の行き着く果て。不幸にもそこに至ってしまった結果、ですわ。」
 真摯さを装った応えに秘められた嘲笑。立場こそ違え、お互いがしていること、しようとしていることにさしたる違いはないのだと、声なき声はフィアナに告げる。
「……言いたいことは、それだけですか?」
 室内の気温が下がったかのような錯覚。フィアナの表情は全く変化がみられなかったし、その声は相変わらず穏やかな女性らしいものであるにも関わらず、無理に作られたと思しき平板さ、抑揚を抑えた口調に秘められた冷徹な何かは、逆に、首筋に刃をあてられたかのようにセレンティアに思わせる。
 セレンティアは、内心、意外さに目を見張る思いだった。
 どうやら、この騎士団長は、策謀家や権力者という立場にありながらも、驚くべきことに、純粋に直属ですらない部下の一老秘書官が死に追いやられたことに義憤を感じているようだ。その事実を感じてしまった心が一時計算する理性を抑え、知らずセレンティアに一種の躊躇のようなものを齎した。
「まぁ、私にも全く責任が無いとは申しませんわ。確かに私も思慮が足りなかったかもしれません。そこのところは謝罪させていただきましょう。」
 守勢に回ったことを意識しながら、上辺は主導権を握っているが如く、あくまで優雅に一礼すると、セレンティアは更に言葉を継ぐ。
「その上で……。……単刀直入に言いましょう。取引を致しませんこと?」
「取引……?」
「はい。私共には、例えば《絆》を解放しうる手段があると申し上げたら、信じて頂けますかしら?」  
「……。」
「ご存知かもしれませんが、私共の組織は、この地に隠匿せらる『装置』に些か通じておりますの。ひょっとしたら、あなたの知らないことも知っているかもしれないでしょう?」
 セレンティアは、まるで、高貴なるお嬢様方が、宮殿の片隅で行うお茶会での一場面のように、他人事めかして語る。
「出来れば、お近づきの印として、受け入れて頂ければ嬉しいのですけれど」
 囁くように、秘密めかすように、彼女はそっと白の聖女の耳元に紅玉の唇を近づけた。
 ――セレンティアを『水』の者として戴く『組織』は、嘗て、この世界を『大いなる災厄』から守ろうと、その知性と情熱と生命の全てを捧げた人々の末裔達の作り上げた秘密結社のようなものだった。
 今は失われてしまっている、極めて高度な魔法技術。その粋を凝らして、人々を計り知れぬ危険から守るべく、彼らは日々、研鑽し練り上げた最良とされた方策の結実。その血汗の結晶。それがこの聖教府の地下に秘され封じられてきた『魔法機構』。
 その研究と開発の実務作業は、現在とは比較にならない程に発達した魔術が一般的に用いられた当時においてすら、超一流の術師と呼ばれた高位魔術師達によって為されたという。
 セレンティアは、その熟達した奇跡の術師の一人の遠い子孫であると聞かされて育った。それが、事実であるかどうかは、今となってはおそらく知る者はいないであろうが、それでも彼女はその話を信じていたし、信じている自らの出自に誇りを持っていた。誇りを持つが故に、その『組織』の存在意義と為している目的に邁進することに、今まで些かの躊躇いを抱くことはなかった。今後も抱くことはないだろう。たとえ志半ばにして、斃れようとも。
 彼女にそこまで思わせる、『組織』の現在の目的は、究極的には二つに集約される。
 一つは、『組織』を生み出す所以となった、『火』の者を探し出して、捕らえ、可能であれば再び迎え入れること。
 『組織』は。
 最初から今ある秘密結社のような存在であった訳ではなかった。
 最初は、当時の人々が、世界中から有意の実力者を募った、人類の総力を結集した一つの研究機関のようなものであったという。だが、『大いなる災厄』の甚大な被害を防ぐことに失敗したとき、彼らは、実は災厄を招き寄せた『叛逆者』の烙印を押され、世を追われることになる。その世論を操作し、徐々に災厄後の苦難に喘ぐ人々の生活に浸透していきながら、良くも悪しくもその後の世界の流れを作り上げた唾棄すべき者達の巣窟は、現在『教会』と呼ばれている。その当時、世に疑心と恐怖を撒き散らした『叛逆者狩り』の犠牲となり、『火刑台』にて処刑されたのが『火』の者である。だが、その際、『火』の者は、自らも開発に携わった『魔法機構』に関する知識・技術を取引材料に、密かに『教会』と手を結んで生き延び、闇へと逃れたのだという。その後、『火』の者は、如何なる術を用いてか、今に至るまで、命を繋いでいるという。半ば伝説にも、夢物語にも思われるが、少なくとも「エル」の名を持つ炎術師は、何度も目にされ、記録に残されている。
 真実であるにせよ、単なる組織維持の為の作り話だったにせよ、セレンティアは、『組織』の総意に従い、目的を果たそうと思う。
 そして、今は、もう一つの目的を果たさんが為に、この敵地たる聖教府へとやってきたのだった。
 その目的とは、『魔法機構』の破壊。
 『魔法機構』は対災厄の戦闘装置。そう簡単に破壊できるようなものではなく、稼動してしまえば手出しは出来ない。だが、《絆》が完全には機能していない今なら、《資格者》がその力を引き出されていない今なら、それも可能だ。当然のことだが、『組織』は、嘗ての『叛逆者』達が生み出した魔法装置に関する知識を、ある程度までは受け継いでいるのだから。その知識の中には、《絆》の無効化とは言わぬまでも、機能不全を惹起する方法程度のことは含まれている。
 『教会』の歴史を辿れば、『魔法機構』を利用して『災厄』の規模を縮小させ、それを教会の祈りの奇跡と称して、世俗の権力を保持していくということの繰り返しだ。世の人々を犠牲に晒し、その血を啜り肥え太る身でありながら、自ら聖職者と嘯く浅ましさは、『叛逆者』の末裔なればこそ、赦さざるべき大罪として弾劾せねばならない。
『魔法機構』は最早、単なる『教会』の権威の維持の道具に成り果てた。
 ならば、これを破壊し、その上で、再び、世の有為の人材が自らの力を持って、人類の朝を切り開くべきなのだ。
 それが、嘗ては知らず、昨今の『組織』の至上命題であり、セレンティアの目指すべき到達点であった。
 だが。
 セレンティアの、その内心の気負いに気付かぬげに、フィアナはつと身を離すと、セレンティアを柔らかく見つめて、笑みを浮かべたまま、小首をかしげるようにして問い返した。
「……それで、あなたは私には何をお望みですか?」
「……私達が望む未来の扉を開けとは申しません。が、教会の目指す扉を開かぬように、力を貸して頂きたいの。」
「……。」
「例えば、如何なる手段を用いても、災厄を終わらせようという『モノ』を消してしまうとか。そう、幾星霜も経て漸く巡り来た好機に、《絆》も《その者》も犠牲にしても、より多くの人々を救う為、その未来を永劫の安寧を齎す為、監視者である身の分を超えようとしている『モノ』。人ではない、人の形をした『モノ』を、ね。」
「……仰ることが、よく、分からないわ。」
 笑みの消えた、それでも穏やかさを絶えさせることのなかった整った貌が初めて、少し強張ったようだった。
 ほんの、おそらくその変化を捉えることだけを目的に見ているものでなければ、気付かないような、微かな、表情の変化。
 水の魔術師は、目に見えぬ水の流れを感じ取るように、そのフィアナの心を感じ取った。
 成程、二律背反は、確かにどのような人物に対してであろうとも、等しく苦しみを齎すものらしい。
 くす。
 セレンティアは、思わず、笑い声を漏らした。
 楽しげな、明るい笑い声。
「……そう?そうかもしれないわね。いいでしょう、そういうことにしておきましょうか。それでは、もう少し分かり易いことから、お願いしようかしら。『装置』に通じる道を開いて下さればいいわ。それだけ。簡単なことでしょう?」
 一度、『魔法機構』への扉が開けば、あとは簡単なものだ。
 だが。
「……随分と、都合のよい話ではなくて?」
 残念ながら。
 若き修道騎士団長は、そうそう思い通りになる存在ではないようであった。
 セレンティアの知性は、自らの限界を試す相手として、非常に好ましい存在として捉えているのだが、物事を簡単に進めるという側面からは、対極的な存在と思うべきであろう。
「そうかしら。そんなことはないと思うけれど?私達にとってみれば、《絆》は代えのきく、一つの部品と変わりがない。多分、あなたにとっての妹とは、自ずと持つ意味が異なるのではないかしら? 影ながら懸命に《絆》を守ろうとする姿には感動の涙を誘われたわよ?」 
 笑みを絶やさず、問い返す。
「確かに、そうだわ。あの子は、部品等ではない。あってはならない……絶対に。そして、だからこそ、私は取引する訳にはいかない。妹は、その程度の存在ではないの。私にとっては。……そうよ……どのようなものだって、代わりにはならない……決して。……でも、そうね……例えば、あなたが《三つの鍵》をお持ちで、私に下さるというのであれば、代わりに《扉》を開けて差し上げることが出来るのだけれど?」
 フィアナは、一時の感情の波に飲見込まれてしまうことなく、自らの手札と相手の手札を見比べ、冷静に回答を導き出したようだった。
 間接的な答え。その意味するところは、否。
 流石に、こちらだってこの時期には《鍵》は手放せない。
 まぁ、仕方あるまい。駄目で元々のつもりでいたのだから。この場で殺し合いになるよりは、遥かにまともな結末ではないか。少なくとも、相手がどの程度こちらのことを知っているのか、どこまで今度の災厄に纏わる事態ついて把握しているのか、を知ることが出来た。
 ――とはいえ、そのまま終わるのも芸がないかしら。
 セレンティアは、肩を竦め、軽く溜息をつくと、さも残念げに、名残惜しげに尚も言葉を継いでみる。
「いいの? あなたの妹を、生贄に捧げる必要がなくなるのよ? 念願が適うわよ?」
 知らず、意地悪な頬笑みが浮かんでいる。
 これくらいで、結論が変わるとは思えないが、何らかの材料となる反応が引き出せるなら僥倖というものだ。
「必要ないわ。その程度のことなら、自分で対処します。人の手は借りずに、ね。……第一、あなたの言うことが本当とは限らない。まさか、このような初お目見得をした相手を信用するような私だと、あなたも思っている訳ではないでしょう?」
「残念ながら、私の言葉が本当だという証明は出来ないわね、確かに。勿論、あなたに信用してという程に、私も愚かでも図々しくないしね。」
「ならば、この話はこれまでにしましょう。お茶でも召し上がりたいのなら、準備させるけれど?」
「そう。そんなに悪い話ではないつもりなのだけど? 仕方ないわね。」
「残念ながら、教会は咎人と取引をしないことになっているの。」
「咎人、ね。」
「それに、私には私の目指すものがある。それを阻むことになりかねないことに力を貸す訳にはいかないわ。」
「出来れば、その目指すものについて、詳しくお聞きしたいところだけれど……。」
「……。」
「答えて頂けそうもないみたいね。まぁ、大体想像出来てしまいますけれど。」
「……想像なさるのは、あなたの自由。どうぞ、お好きに。」
「では、仕方がありません。クオン……でしたかしら。まずは彼に退場願うことになるかもしれませんわね。」
「それも已むを得ないでしょう。尤も、あなたの手に負えますかしら?」
「ご配慮、痛み入りますわ。でも、物事はやってみなければ分からぬものですもの。私達は、そうして未来を切り開くことを旨としているのですから……。」

 黒い湖面の上を、鈍く輝く光の球が、飛ぶ鳥よりも遥かに早くなめるように走っていく。
その球のほんの微かな煌きがみせる赤黒い脈動は、不吉な波濤の如く広大な闇の画布に溶け込み、最早、人の目には捉えることが出来ない。
 光球の中には、僅かに焦慮の表情を宿す、女の姿。
 水色をした薄絹の衣が、球の脈動にあわせて、紫色に染まる。
 その自らの衣の、一種官能的な明滅を気にする余裕もあらばこそ、セレンティアは、先を急いでいた。
 湖水の下に眠る、嘗ての『火刑』のおりに沈んだ、今や白骨死体めいた古めかしくも決して時の侵食に屈してはいない家屋の一つに設けた隠れ家で、報せを受け取ったが故であった。聖教府に対する陽動の為に準備した、もう一つの拠点が教会の精鋭に襲撃を受けたというものであった。拠点そのものは、特段失って惜しいものではない。むしろ、襲撃させることを主眼に準備したものであることを考えれば、その実用性の確認をするよい機会、謂わば予行演習と呼ぶことも出来よう。
 だが、そこに、仲間と貴重な手札がいるとなっては話は別だ。『風』の名を担うクレイトンであれば、そうそう窮地に陥るようなことはあるまい。その点は、万全の自信を持っている訳ではないにせよ、それ程心配することもないだろうとは思ってはいた。しかし、現状がどのようになっているかを把握せねば、この次の手を打ちようがない。早急に、クレイトンと連絡を取るなり、現場の様子を確認するなりの方法が必要であった。
 とはいえ。甚だ遺憾なことに、拠点を設けた聖都の外れの方には、ある種の結界魔法が張られており、内外の魔法干渉を強力に遮断しているようであった。現時点において、その内部の様子は完全に隠蔽されてしまっている。当然、クレイトンと連絡をとることはおろか、拠点の様子を探ることすらままならない。そういう状態では、止むを得ない。些か逡巡するところがないでもなかったが、結局セレンティアは、自ら、状況を把握すべきだと判断せざるを得なかった。何名かは、使える人材がない訳ではなかったが、それだけに下手に失う訳にもいかない。特にこの段階でフィアナと干戈を交えるつもりがない以上は、様子見だけで十分なのだから、自分が出た方が無難であろう。そう決めれば、あとは迅速な行動あるのみ。
 その様子に、何事かと目で問うたのは、今は共に行動しているエルフィスであった。
 少々不機嫌そうな表情が、今の彼の順境にあるとはいえない状況を如実に表しているようだった。もっとも、この男はいつもそのように見えているのだが。そうかと思えば、ちょっとしたことで上機嫌にもなるし、かっとなれば思慮が身を離れる。喜怒哀楽が豊かな、少々単純な部類に入る男ではあるだろう。御し易くはあったが、こういうときは僅かばかり煩わしく思わなくもない。だがまぁ、今ここで、放っておいて馬鹿な真似をされても困る。
『妹さんのことは、もう少しお待ちなさいな。探らせているところです。』
 シエーアの行方など、髪の先の程のことすら知らぬげに、しれっと口にするセレンティア。
 何か言いたげな彼を片手で制し、まずは休んで次の行動方針を定めるように半ば命令するように言い聞かせると、彼女は戻ったばかりの隠れ家を再び後にしたのだった。
 ――それにしても。
 セレンティアは、流れ行く暗闇を睨むようにしながら、慨嘆する。
 私と話をしている間に、これだけのことをやってくれていたなんて。彼女は、思わず唇を噛みしめる。この光球の中にあってすら鮮やかに目に映る真紅の唇が、僅かに歪んだ。
「……流石だわ、フィアナ・グローライト。『その手を逃れ得る術は無い』と謳われるだけはあるわね。」
 と。
 まさにその時。
 独白が宙に舞い散ろうとした刹那。
 彼女の前に立ちはだかる人影が現れた。
 忽然と、ずっとそこにあったかのように出現した者は、彼女の前方軌道上のすぐそこに、傲然と留まっている。
 まるで、亡者を飲み込む冥界の門の如く。
 一瞬、ひょっとして、クレイトンが助けを求めてきたのかとも思ったが、その人影は明らかに男のものではなかった。
 セレンティアは、相手の微動だにせず対峙する態度に、本能的な危険を察知する。
 ……流星の如く天翔ける彼女の前に立ち塞がり、待ち構えるということは、私をこの場に止めおく意志があるということ。
「――フィアナ・グローライトかっ!?」
 それは、確認ではなく続いて起こる筈の戦闘への備えの言葉。
 回避したところで追撃は免れまい、ならばと、セレンティアは、光球を急停止させるとすぐさま術の発動に入る。この数瞬、白くは見えない人影、数刻前までの彼女の態度と聞き知っている性格から、フィアナではあるまいと判断しつつも、フィアナを相手するときと同様の対応をとることを即断する。
 認識に遅れて、理性が行動を制御すべく働きだす。
 あのような現れ方をできるような者が仲間内にはいない以上、敵以外である筈が無い。第一仲間ならば、他に意志疎通の手段が幾らでもある。よしんば、敵でなかったにせよ、この敵地で出会う者、消し去った方が後腐れがないというものだ。今更、利用するに値するような者、フィアナ以外には居はしまい。
 相手の姿を確認する暇もあらばこそ、最短速度で攻撃を開始。幸いにして未だ足元には湖面が広がる。無尽蔵ともいえる大量の水は悉く彼女の武器となる。
 攻撃すると決めた以上、先制して全力で叩く。瞬時に、無数の水槍が眼前の空間の一点を目指して、昇り貫く。限界まで圧縮された水は、岩ですら容易に切り裂く、冷たい刃。それが数え切れぬほど襲い来るのだから、普通なら万が一にも助かろう筈もないが、セレンティアはその手を緩めない。相手が逃げられずにそこに留まっていることを認めると、連続で呪文を高速発動させる。術を使わせる余裕を与える訳にはいかないのだ。いつの間にか宙を埋めるように浮かびあった莫大な水量を湛えた数多の蒼球が、指先の動きに従い、それは瞬時に巨大な氷塊に変容して間断なく降り注ぎ、その質量によって獲物を粉砕しようとしていた。四方から交互に潰しあうように標的を狙う巨大な槌。その連続した殴打の最後に、一際巨大な塊が相手を叩き落す。水中へ。
 彼女は『水』の魔術師。
 水中こそは彼女の、領域。彼女の城であり、彼女の城塞である。
 先程までは、鏡を思わせるほどに凪いでいた静かな水面が、今は、丘、いや小山のように盛り上がり天を目指して膨張したかと思うと、かっと巨大な水竜王の?となって咆哮を上げる。貪欲な蒼い液体は生き物の如く、落下しつつあるあまりにもちっぽけな獲物を、瞬時に飲み込み窒息させ、一気に噛み砕き圧殺する。轟音と共に、水が想像を絶する爆風となって走り、足元から派手に水飛沫が飛んだ。それはさながら、天へと流れ落ちる滝の如き様。
 そのまま、無理に起された水の怒りが引き起こす想像を絶する津波となって、聖都を襲うかに思えたが。
 辺り一面を、ほんの僅かに白く輝く煌きが満たした。宵闇の中、宙を優雅に漂う雪の結晶。自然界では決して有り得ぬ冷気が織り成す、儚くも美しい純白の芸術。
 セレンティアの突き出された掌に触れた水が、白く堅く姿を変えたかと見えると。
 一瞬にして、水柱が、波が、湖面が凍てつき氷結していく。
 一個の巨大な氷山へと。
 ――それは全て、僅かに心の臓が丁度十を数える間の出来事。
 足場が出来るほどに、一帯が凍りついたことを確認すると、まるで剣呑な戦舞を舞う巫女の舞踏服の如く身体に薄く水を纏い、攻防一体の攻性障壁と為して、肉弾戦に備えていたセレンティアは、用心深く氷山の中央へと近づいた。
「……少なくとも、これで閉じ込めはした筈だけど……。」 
 蒼白い氷塊は、傍によって見れば、意外にも透明度が高く、澄みきった表面を覗き込めば、中心まで問題なく見通すことが出来そうだった。 
 ゆっくりと近寄ると、氷の滑らかな表面は、光球の微かな明かりに照らされ、鏡面のようにセレンティア自身の姿をぼんやりと反射させる。
「これから、どう処分したものかしらね?」
 呟いて、様子をみてみようと氷山に片手をかけようとした。
 ――その瞬間。
 声が貫いた。
「はじめまして……。それでは、ごきげんよう……!」
 セレンティアは、視線を落とした。
 豊満というには少々薄いが、十分に張り出した胸。
 水色の衣の上を水が覆う、その胸の谷間から、何か尖ったものが顔を出していた。
 ごふっ……。
 愛してやまない清澄な透明さを湛えたものではない液体が、口を零れ落ちる。
 急に感じられはじめた寒気に震えながら、懸命に努力して手を、胸から延びる尖ったものにやった。
 ……杖だ……。
 セレンティアは思った。
「こんなことするつもりはなかったんだけど。ま、万が一、何かの偶然で装置を壊されちゃうような訳にもいかないしね。漸くここまできたんだもの。念には念を入れて、万全を期するってとこね。」
 視線を、声の主に向ける。
 驚くほどに思い通りにならない首を、必死の思いで動かして、なんとか振り向く。
 その様に気付いたか、人影が自ら、視界の中に入ってきた。
 氷鏡の向こうに映る、女の姿。
「とにかく、クオンに出番を取られるならともかく、舞台が壊されちゃってしょんぼり退場っていうのは幾らなんでも無様でしょ。折角、今度は長い時間かけて『力』を補う為に杖みたいな小道具まで作って準備をしてきたんだし、それを無駄にするってのはちょっと、ね。何より、最後の幕は自分で引きたいじゃない?」
 雲が切れた。
 光が溢れ、階を刻む。
 今宵、この時、階の先、雲の帳に隠れいたる天空の女王は、冷然と座する蒼き正円。
「そういうわけで。多過ぎて困るものでもないし、ついでって訳でもないけれど、あなたの『力』も戴いとくわね。そこはそれ、自業自得ってことで。」
 僅かに零れ落ちた、冷やかな青白い月の雫。蒼龍の月の、冥界に旅立つ者への手向け。冥界への道を照らす最期の灯火。
 その清冽な光の一瞬の慈悲に照らし出され、燃え上がるもの。
 ……紅い、髪。
「じゃ、さよなら。」
 そうか、そういうことか。
 薄れゆく意識の向こう、最早、自分ですら聞き取れぬ微かな声が、呟いた。
「『火』……。」
 そして。
 静寂が辺りを包み込んだ。


artemis (05.09.18)
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