「既に、《かの者》に渡ってしまっているというわけね」
「……ああ」
闇夜に浮かぶ焚火を前に、男は苛立たしげに答えた。
パキッ……と、薪が音を立ててはぜる。
火の粉が、顔を照らし出す。
「そう。……まぁ、これも運命なるものの悪戯、ということになるのかしら?」
「ふん」
男は、自らの暗鬱な心を打ちやるかのうように、手にしていた枯れ枝を荒っぽく折ると、貪欲に獲物を求める赤き舌へと放り込んだ。
「ふふ、何を焦っているの?」
「……。」
「大丈夫。わたしはあなたを見限ったりしないわ……今はまだ、ね。……でも……そうね、手は打っておかなくてはならないわね」
楽しげな声が、火に踊る。
どこかしら、いたぶるような調子が混ぜられている気がしなくもなかったが、男は敢えて無視した。
「渡ってしまった以上、《かの者》には必ず『教会』が接触している筈。ならば、『教会』を先に片付ける方が面白いと思わない?」
「どうするつもりだ?」
感情をなんとか抑制した、静かな声音だった。
「くす。漸く、まともに口をきいてくれたわね?」
炎の踊りに合わせて、影が揺れ動いた。
「彼らが最も恐れる事態……それは、《かの者》と敵対することよ。」
「……何を考えているのか知らんが、下手な小細工は必ず失敗に終わると決まっているもんだぜ」
苦味を帯びた口調で、男ははき捨てた。
その傍らで休んでいる、相棒の鷹がぴくりと身を震わせる。
「別に失敗してもいいの。《かの者》の心に種を植え付けられればね」
再び、焚火が音を立て、瞬間、炎が大きくなる。
「『疑心暗鬼』という、闇の色を宿した種を……」
「あなたがクオン?」
その少々好みより高めの声さえなければ、上々の目覚めなんだがな、と名前を呼ばれた当人はぼんやりと思った。
「ちょっと。人が質問しているのよ、何か答えなさいよ!」
次いでクオンは、このやたら偉そうな口調に対して、果たして自分は、この女性の下僕となる契約を過去に結んだことがあったろうかと、半ば本気で悩んだ。
「……ええ、まぁ……」
言いながら、自分の周囲を見回す。
清潔ではあるが、高級感とは縁のない、どことなく古びた感じの部屋。
自分が横になっている小さ目の寝台と、その頭の脇にあるテーブル。
傷みの目立つ、その木のテーブルの上には、彼の防具やらなんやらが無造作に置かれていた。
長剣だけは、我が身の傍らにあるのが、感触で分かった。
確かに、ここは自分の借りている部屋である。
決して、部屋を間違えて寝込んでしまったわけではない。
「……剣の遣い手にしては、随分と隙だらけねぇ。寝起きだからって油断しすぎじゃないの? 私がその気なら、あなた、今頃、地獄の悪鬼と迎え酒よ?」
大袈裟な溜息と共に吐かれた台詞に、別に油断したわけではなく身の危険は無いと判断したから放っておいただけだ、
とは思ったものの、口にしないだけの分別を寝惚けながらもかろうじて取り戻す。
「聞いてるのっ!?」
というよりも、その判断自体が実は激しく間違っていたのではないか、と思い直しつつあるクオンだった。
「ま、いいわ。暇潰しには丁度良さそうだし、力を貸してあげましょう。 私はエルティシア・フィリクス。エルでいいわ」
無駄に胸を張って、言いたいことだけ言うと、その女「エル」は、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「……なんだったんだ、今のは……?」
クオンは、乙女のように無意識のうちに寝具を巻きつけている、何とも怪しげな己の姿に、あらためて情けなさ溢れる歎息を漏らしたのだった。
「なるほど。そういう訳……」
教会および墓地へと向う道すがら。
ジェッターは、柄にも無く、この上ない哀れみを込めた視線で、クオンを見やった。
「宿代はいらんと言われたときは、何事かと思ったけど……」
「納得、だな」
クオンとジェッターは、何とも言えない表情で、先頭を意気揚揚として歩んでいるシエーアとエルを見つめた。
同業者なるが故か、はたまた別の心理的要素がそうさせるのか、二人は相当気があったらしく、とても賑々しく突き進む。
その後ろを、おそるおそる男達は歩を進め、最後尾をティオレが静々とついていくという図式。
ティオレは特に何も考えていないようにみえたが、それがクオンにはとても羨ましく思えた。
エルなる女性魔術師は、目立った。
その高めでよくとおる些か大きめの声も目立てば、どことなく芝居がかった立ち居振舞いも目立つし、その出で立ちも地味とは対極に位置していた。
ティオレが黒の聖女とするなら、エルは赤の魔女といえるだろう。
赤毛に、瞳は流石に赤くは無かったが、赤いマント。
深紅の胸当てに、炎を象ったこれまた深紅のブーツ。
紅玉の嵌った杖をぶんぶん振り回しながら、颯爽と歩む姿は、犠牲者を捜し求めて行軍する魔界の焔帝さながらであった。
街中での周囲の視線が色々な意味で一行に釘付けであったことは、クオンにとって、早くも忘れたいこと筆頭の一つとなっている。
「あの御仁が、まさかあの良心的なマスターの姪とは……」
「智神ですらも思うまい……」
こそこそと、男性陣は語り合うのであった。
それを知ってか知らずか、先頭からはやたら景気のよい声が漏れ聞こえてくる。
「で、わたしは渋々、炎術で助けてやったわけ。何しろ、教会の連中って役立たずばっかりでさぁ……」
クオンはそっと、後ろを見やった。
すると、ティオレは真っ直ぐに彼を見返してきた。
その底知れぬ闇を宿す瞳が、無表情に見つめてくる。
「これも、神のお導き、です……」
その声音はどこまでも、おそろしい程に平板だった。
確かに人材確保には成功したが、これは僥倖といえるのだろうかという疑問と、冷や汗とを感じつつ、視線を前に戻したとき。
クオンは気になる会話を耳にした
「……教会っていえば、変な噂があんのよね〜。なにやら巻物もった人間を狩りだしているとかさー」
「ふにゃ? なんなのそれ?」
「いや、役立たずの奴らが話してたんだけどね、最近、教会内で過激派みたいなのが台頭してて、巻物もった人間を狩りだせーみたいなことしてるらしいのよ。わたしらなんか、巻物の類をよく目にしてるじゃない? 変なのが度々来てさー、いい迷惑なのよねー」
巻物。
「なんでも、運命を映すものとか何とか呼ばれてるらしいんだけどね。詳しいことは知らないわ。そんなのに興味ないしねー」
運命を映すもの。
その単語は、二つながら、強く心を揺り動かした。
クオンは、思い出した。
思い出さざるを得なかった。
あのぞんざいに投げかけられた言葉を。
「その巻物はお前を運命に導く」
次いで、この街に来てからの出会いを。
酒場での乱闘を。
『耳も悪いようですね。病院に行く事をお奨めしますが』
『ああ!?ざけんなよ、このあま!』
……彼女は、本当に災難に巻き込まれていたのか?
実際に仕掛けたのは、本当はどちらだ?
『だとしても、実際に彼らを止めに入ったのはあなたです』
……礼を言う為にわざわざ、騒ぎがおさまるまで待っている?
あれほどの実力者が?
更なる物思いにふけりそうになったそのとき、一際甲高い声が耳に入った。
「どっちにしろ、人違いで殺されたら洒落にならないわよねー? ってわけで、半殺しにしてやったわけなのよ!」
クオンは再び思い出した。
あの巻物の一文を。
『ひとりが裏切り、ひとりが死ぬ』
思わず呟く。
「まさか……」
そのクオンの姿を、ティオレとジェッターが興味深げに見つめていた……。