JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





三周目二番



 それは単調で、単純な作業の繰り返しだった。払い、薙ぎ、砕き、吹き飛ばす。生ける死者。生命の抜殻。かつて人だったもの。命持たぬ生者は死者になるのではない。それは単なるモノになるのだ。
 ひとつ。
 頭上斜め上より、剣それ自体の重みをそのままに振り下ろし、その人を象った冥王の玩具の頭を、腕を体を潰し飛ばす。
 ふたつ。
 ほとんど勢いを殺させもしなかった無骨な刃を、そのまま横へ滑らせる。かつて胴体と呼ばれるものだったモノが、見事に輪切りにされる。上体が無様にぐちゃりと音を立てて叩きつけられる。
 みっつ。
 刃を返し、剣の平で叩き飛ばす。
 泥に突っ込んだような僅かに、だが、確固たる感触。その嫌悪感を呼ぶ手応えのみを残して、再びの死を迎えさせる。もう一体の世の理への罪人をも巻き込んで。
 何度か聖印を振りかざしていたティオレは、今は本人曰くの専門としている武器を巧みに使いこなしている。
「……っと。とはいえ、あまり気持ちのいいものじゃないなぁ」
 剣にまとわりつく、どす黒い腐汁。周囲に立ち込める、生命の尊厳に挑むかの如き汚辱にまみれた粘着質の臭気。何とも云えぬ、何ともやりきれぬ気分にさせられるのは確かだった。
 刃のもつ鈍い輝きが、より一層、鈍く重くなっているのが視界に入ってくる。
 しかも、正体不明の不気味な声もまた、戦意を打ち砕かんと間断なく続いていた。まさか、このおぞましい軍隊の進軍曲だということもあるまいに。あるいは死者を鼓舞する為の冥界からの応援の声なのだろうか。
「気をつけて……! その倦怠感も、彼らの武器の一つです……!」
短く、一言毎に、切るように発せられた叱咤の声。
背中から耳に届くそれは、静かだが、よく通る透明感のあるものだった。
 一体、どれほどの死者達を、再度屠ってやったのだろうか。既に、彼ら二人の周りには下生えの色濃い緑はおろか、堅牢なる大地の雄々しい土の色さえも、全く見られない。樹木の重なりから丁度開放される、ちょっとした森から教会へと向かう草の原。季節がよければ、或いは白、或いは青、或いは黄の花が見られるであろう開けた地。だがしかし。今あるのは唯、冒涜の罪を宿した闇の色をおびる、半ば液化した不浄なる肉塊のみ。折り重なり、徐々に厚みを増していく腐れた壁。その壁を更に堆く積み上げようと、《生ける死者》どもは益々数を増やして襲い来る。じりじりと心を苛立たせる、一見とても敵意ある存在とは思えぬ程の遅い歩みで。そう、まるで今を生き急ぐ生命ある者達を嘲笑うかのように。戦いの場を確保すべく、巨大な落とし穴を背後に緑の下をくぐる道から開けた側にその身を移してから、相当の時が流れている。
 それら、冥界からの虚ろなる誘い手は、二人を地獄の夜会へと一刻も早く導かんと、この緑の狭間に所狭しとひしめいていた。
「完全に囲まれたか。あまり嬉しくないな」
「仕方がありません。逃げ道がないのでは」
 今のは、言葉になっていたのか。出来れば、聞かなかったことにしてほしいところだがと、クオンは内心苦笑する。
 思えば、簡単に片付くはずがないのだ。陽光の守護ある時に、わざわざこのような律を外れた輩を呼び出すような者が相手なのだから。数を増す《生ける死者》に、一時は強行突破を図って撤退を試みたものの、その先に待っていたのは、目に見えぬ罠だった。ティオレによれば、「閉じた空間」なるものらしいが、正直、魔法を使う連中のいうことはよく分からなかった。
「どこへ向かっても、結局はこの穴の前に戻るようになっている……思ったより、敵は強大だったようですね」
 そう語った彼女が、ほんの僅かだが表情を曇らせていたように、今となっては思えるのだった。それはともかく、それ以来、穴の前に陣取り、長期戦を余儀なくされている。
「ま、こうなったら、本気で魔術師のお嬢さん方の援護を期待するしかないかもなっ!」
 そしてまた、クオンは単純だが凄惨な作業へと没頭していった。

「聖者のもたらす灯火よ!」
 杖の先に、目に痛みが走るほどの輝きが燈る。
 闇になれた瞳が、再び、光の下での視界を取り戻すまでの、文字通り瞬く間の試練。何度か目をしばたくと、漸く周囲の様子が把握できた。
「ふーん、ココが例の洞窟ってやつかしらね?」
「うん、そうみたい」
 光の先に、少女はいた。その、子供のような無邪気さを湛えた瞳が、彼女をみつめている。だが、そこに傷ついたような暗さがあることに、エルは気づいた。
 天然の岩が織り成す地下通路、その途中に落ちてきたような形になったようだ。その少女の向こうに暗く穴があいているのが分かる。目を走らせると、自分の後ろにも横穴があったが、三十歩ほどあるいたところで、行き止まりになっているのが見えた。再び、この状況下でも一見、元気を失っていないような少女に視線を戻す。
「あら、シエーア。怪我もなさそうだし、とても元気そうねぇ」
「勿論だよ。でもエルは、あちこち傷だらけで、結構ヨロヨロだねぇ。わ、わ、どしたの、そのコブ? うう、いたそー」
 拳を口元に当てて、目を見開くシエーアは、『女の子』以外の何者でもなかった。そこが、どことなく演技めいて見える。
「どこぞの無鉄砲娘をフォローしようと思って出来た名誉の負傷よ!」
 嫌が応にも口調がきつくなるのは仕方があるまい。が、当然そのようなものが相手に通じる筈もなかった。
「えー、エル、ひょっとして《その身、羽の如く》の呪文、使えないのー?」
 それどころか、にやりと笑みを浮かべてさえいるのだ、この娘っ子は。この状況で頼もしいと言えなくもないが、それだけの感想しか持ち得ないとしたら、感情面に些か欠けるものがあるのは間違いあるまい。
「悪かったわね! 生憎と専門じゃないのよ、そういうのは!」
「その割には、怪我が軽くて良かったねー。あそこから落ちたら、普通は死んでるよ!」
 片手に杖を携えたまま腕を組んで仁王立ちするエル。そこへとてとてっと近づいてきて、エルの身体の具合をまじまじと診るシエーア。
「ま、ね。……私は死ねないもの」
「え?」
 その、ぼそっと述べられた応えに、はっと頭をあげるシエーア。
 炎のような髪の下に、瞳が輝いていた。
 (あ、エルの瞳って緑色だったんだ……)
 まるで、樹木に萌出づる新緑のような、生命力に満ちたライトグリーン。今までもずっと目にしていた筈の事実を、あらためて認識する。その意志の強さを示すかのように光を放つ瞳に、ふと翳が宿ったように思い、シエーアはじっとエルを見上げた。瞬間の沈黙。秘密を宿した静謐。
 しかし、それは次には嘘のように消え去っていた。
「そうよ、死ねるもんですか! クオンへの貸しを返してもらわないと死ぬに死ねないわっ!」
「なになに、クオンって借金持ちなのっ!? ひょっとしてエルってお金持ちっ?」
 一瞬の沈黙が気になり、わざと茶化してみる。
「違うわよー。そんな訳ないじゃない。お金持ちなら塔でも建てて引っ込んでるわよ。もっと違った貸しがあるのよ。尤も、クオンが知っているか分からないけどね。」
「クオンが知っているか分からないって、どういうこと?」
「ふふん。内緒。神秘的な乙女には秘密が付き物なのよ」
 エルは、くすりと笑いを漏らすと、炎を燃え立たせるように髪を掻き揚げ、そのまま頭上を見やった。
 小さく光点が見える。あれが外界の光だとすると、想像よりもかなり深い。人の手で掘ったとするなら、ご苦労なことだ。無論、そんなことはないだろうが。
 杖を振り、上へと伸びる穴の壁の様子を探る。乾いた自然の土。土というよりは砂に近いかもしれない。時折、ぽろぽろと塊が剥がれ落ちてくる音が聞こえる。
(だから、この程度の怪我ですんだのね……)
 咄嗟に爆風をもたらす炎術を利用して自身の身体を壁に吹き飛ばし、こすり付けることで、落下の衝撃を少しでもやわらげる。荒業ではあったが、それだけの価値はあったようだ。
 今、自分が踏みしめている床面に杖を向け、その如何にも硬そうなごつごつとした岩の点在する道を見て思うのだった。
 (まともにいったら、いくら私でも……ね)
「うー、まるでボクが乙女じゃないみたいじゃないか……」
 傍らでは、シエーアが何やらブツブツ文句を言っているようだったが、エルの考え込んだ様子に気づくと、今度は真面目な表情と真剣な声音で話し掛けてきた。
「これ、どうやって出ようか……?」
「シエーア、《天翔ける騎士》の呪文とか使える?」
 詠唱者が自由に飛翔できるようになる呪文だが、使い勝手がよく、しかも比較的易しいものである為、結構一般的な術だ。シエーアなら使えてもおかしくないだろう。
「ざーんねん。今日は体調悪いんでパス。」
「あ、そ。」
「念の為、期待せずに聞き返すんだけど、エルさんは使えちゃったりするのかな?」
「ざーんねん。今日は日が悪いんでパス。ちなみに《浮遊せるその身》とかも全然だから」
「あ、やっぱり」
 揃って溜息をつく二人。
 となると、まず考えられるのは……。
「壁登り、してみなきゃダメかなぁ……」
 二人とも、自分たちだけで探検隊を結成するつもりはさらさらない。いくら魔術の使い手でも、万能ではないことは重々承知している域には達している。
 シエーアは再び、遥か穴の出口を見上げた。と、おもむろに壁面にとりつき、適当なでっぱりを探しながら登ろうとする。
 が、しかし。如何にも軽量といった感じの彼女の体重ですらも耐え兼ねて、壁面はザラザラと崩れ落ちてくる。すると今度は、どこかからか取り出した短刀を壁面に突き刺して、腕力を頼りに登ろうと無謀な真似をし始めるシエーア。当然の如く、全然登れない。そもそも、短刀を刺した先から崩れるし、第一、崩れなくても体力が持つまい。
「となったら、壁登り用の呪文とか使ってみますか」
 掌を突き合わせ、口の中で呪文を唱えると、シエーアは再び、壁に挑んだ。今度は掌を壁にあて、まるで這うようにしてそろそろと登っていく。その様子はまるで蜘蛛が木を這い登るよう。速度はかなり遅いが、着実に上へと進んでいる。
「結構、やるじゃない」
 ずっと、シエーアの挑戦を黙って見守ってきたエルが口を開いた。
「ふふーん。当然。ボクの力なら余裕だね。これなら、なんとかいけそうだよ。ま、途中で唱えなおす必要があるだろうけど。エルも早く登ってきなよ。」
 何が楽しいのか、はしゃぐようにしてエルを呼ぶシエーア。片手を壁面から剥がして手まで振っている。
「無理ね。」
「ええー、大丈夫だよー。そんなに高位の呪文じゃないから、何回か唱えなおすにしたって、十分魔力は足りると思うけど……」
「だって私、その呪文、唱えられないもの」
 エルは腕を組むと、とても偉そうに、自慢気に答えたのだった。
 それから。何故か上から腐った肉片だの、肉汁だの、もげた腕だの足だの胴だの、潰れた頭だの、とにかく『気持ちの悪いもの』が容赦なく降り注いでくるようになったため、慌てて飛び降りてきたシエーアとエルは、悲鳴をあげながら傍らの横穴に飛び込んだのだった。
 横穴の先に続いていた洞窟は狭かった。いや、元は広いのだろうが。いきなりお出迎えをしてくれた、奉仕の精神に満ち溢れるムカデの化け物やら、モグラの化け物やら、非常識な大きさをした光る虫やらを片っ端から吹き飛ばし、進めるところを一通り探索を終えたところ、あっさりと落盤により行く手がふさがれて、袋小路になっていることが分かったのである。試しにエルは強力な爆炎魔法を用いてみたのだが、シエーアともども天井に熱烈な抱擁をされかけたので、丁重にお断りした次第であった。
「あ、あぶなかったー」
「エル、もう少し、考えて行動して……」
 しばらくぺたりと地面に座りこんで、シエーアは妙に疲れた口調で言ったものである。
「あなたにそんなこと言われるってのは、少々筋違いってものじゃないっ!?」
 自分の発言に、今まですっかり忘れていた重要な質問事項を思い出し、エルは質問でその言葉を締めくくった。
「大体、なんだって一人で飛び出したのよ。いくら腕に自信があっても、あの状況では危険過ぎるのが分からないあなたではないでしょうに」
「あ、うん……」
「なによ? まさか生き別れのお兄様でも見たというんじゃないでしょうね?」 
「ううん。兄さんは死んだ……筈だし。そんなんじゃないよ……」
 (あら、シエーアにはワケありの兄弟がいたのね。失言だわ……)
 しかし、シエーアの気弱げな言葉は聞こえなかったように、エルは会話を続けることにした。
「じゃ、なによ? 穴に飛び込む趣味でもあるの? ちなみに私は嫌いよ。何度落ちてもこればかりは慣れないわ」
 どうやらエルは見かけによらず……うん、見かけによらず、少々アレな人物であるらしい。
「……ジェッターだった」
 ぽつんと、こぼれたシエーアの言葉。
 エルは怪訝そうに眉を動かすと、無言で続きを促した。
「あの身軽さも、何より、ボクは見たんだ。ボクたちを襲ったのは、ジェッターだった」
「ふーん……」
「あれは、殺気だった。絶対に、そんなことする筈ないのに。でも、あれはジェッターだった……」
 それきり、黙り込むシエーア。この二人には珍しく、沈黙が間を満たしていく。
 目を伏せているシエーアを前にして、エルは何やら考えるように、指先に自前の炎をくるくると巻きつけ、そして、おもむろに口を開いた。
「成る程ね。それで思わず飛び出した、と。……で、あなた、そんなことされる覚えあるの?」
「え?」
「だから、ジェッターにあんな風にからかわれるとか、襲われるとか、それとはまた別の意味で襲われるとか。まぁ、個人的には、昼日中、仲間の面前でっていうのはあまりお薦めしないけど、人の趣味はそれぞれだし。それが興奮するっていうんなら……」
 違った。エルは少々アレな人物ではない。とてもアレな人物だ。シエーアは断定した。
「ないよ。あるわけないよ。ボクとジェッターは……」
「じゃ、いいじゃない」
 シエーアに最後まで言わせず、あまりにもあっさりとした口調で、エルは言いきった。
「へ?」
「そんなことないなら、あれはジェッターじゃなかったんでしょ」
「はい?」
「あなたは年の割に経験を積んでいるわ。ジェッターとの呼吸も見事なもの。ということは、ジェッターと一緒に組んで結構経っているんでしょう。生死を共にするようなことも少なくなかったに違いないわ。運命共同体っていうのかしら。そういう戦友は信頼に足るものよ」
「うん……。ずっとジェッターと組んできたんだ……そっか、そうだよね……!」
 過去を思い返しているのか、半ば喜び、半ば当惑したように、それでも素直に答えるシエーア。心なしか、見せ掛けではない元気さが増しているようだった。その様子を見て、エルは続けた。
「どうも、罠に嵌められている気がして仕方ないのよ」
「罠?」
「さっき、穴の上から嫌なものがたくさん降ってきたじゃない? あれってきっと地上で襲撃されている証拠よ。あれはどうみても《命脈尽きし者ども》のかけら。とすれば、襲撃相手は何らかの知性ある者よ。術なくして昼日中に存在するものじゃないもの。そして、そんな仕掛けをするからには、全てに関連性があることを疑うべきでしょうね。これは結構大掛かりな罠よ」
「わ、エル、なんか頭がいい人みたい……」
「失礼ね。頭がいい人なのよ、私は!」
 シエーアはエルを見つめた。この人物は単純にみえて、そうではなさそうだった。
(それに、《命脈尽きし者ども》という言い回し……)
 もう少し、エルと話してみたい気分もあったが、まずは現状打開の方を優先すべきだろう。シエーアは思考を切り替えた。
 エルの分析が正しいならば、現在の状況は極めて危険だ。戦力は分散され、しかも互いに連絡手段もない。
「マズいわね……早く合流しないと……」
「そうだね。ここは、敵らしい敵がいないから大丈夫だけど……」
 それも、いつまでのことか、正直心もとない。シエーアの言葉にエルは考えた。だが、この回りくどいやり方をみるに、どうやらパーティ全員皆殺しが目的というわけでもないようだ。殺すつもりなら、もっと確実に分断し、直ちに撃破しに掛かってくるだろう。どうも、敵の狙いがよく分からない。これは案外、要となる問題だ、とエルは心に留め置くことにした。
「取り敢えず、地上に戻りたいわね……」
「ボクだけ、先に上に出るって訳にはいかないよねぇ」
 こうなった以上は、その方法も考えなかったでもない。だが、やはり更なる戦力分散は避けたいし、上から何が落ちてくるかも分からない。途中で狙い撃ちされては手も足も出ない。あの術では、登りきるのに時間が掛かりすぎて危険だ。第一、地上の様子も分からない。登りきった瞬間に襲われる可能性は高い。
「地上の様子を確認できないかな」
「そうね……今なら使えるか。シエーア。《見えざる監視者》を使うわ。護衛宜しく!」
「え?」
「あなたを信頼してるからね。気づいたらこの世とおさらばしてる、なんてことがないようにしてよ!」
「……それは、任せといてよ。でも……」
「なに?」
「エルもそんな地味な呪文、知ってるんだね……」
 一発、シエーアの頭をはたいておいてから、早速、エルは精神集中に入った。心の中で陣を描き、意識をのせて解き放つ。《見えざる監視者》は偵察用の呪文だ。壁や障害物に一切阻害されずに自由に移動する、非物質的存在の眼球を生み出し、それを通して周囲を観察する。だが、術の維持に精神集中が必要な為、安全な状況でなければ使用は薦められない。一通り周囲の敵、というか原住生物を殲滅した、比較的状況が落ち着いている今でなければ使用する機会はないだろう。とはいえ、エル自身はこの術は得意ではない。というよりも苦手だ。普段ならば、まず使うことはないのに、とひとりごちながら、エルは魔法の眼球を地上に向けて移動させた。
 
「ちょっと、なんでそんな状況になってるのよっ!?」
 暫くの後、エルの杖を掲げて周囲の警戒をしていたシエーアの後ろで、エルが飛び起きた。
 驚きのあまり、思わず武器を構えるシエーア。
「……驚かさないでよ、エル!」
「落ち着いてる場合じゃないわ。思ったよりも状況は切迫しているみたい!」
「どういうこと? ボクにも分かるように教えてよ!」
「地上では、単純な物量作戦が展開されてる。クオン達、押されてるわ」
「ええっ!? でも、クオンもティオレもかなり腕が立つのに……」
 単なる地上戦で、最も強力な戦術は物量による正攻法だ。敵の10倍の兵力があれば、数で押すのが常道である。実際にはそれを準備できるような事態が少ないからお目にかかることは少ないが。たとえ質で劣ろうとも、数は最終的には質を補いうる。
「二人は何故かは知らないけど、逃げようとしない。だとすれば、今までずっと戦っているのでしょう。休む暇もないだろうし、ティオレの弾が切れたら、かなり不利な筈よ」
 立ち尽くすシエーアを横に、うろうろと腕を組んで歩き回るエル。
 (地上に出るための手段。天馬でも召喚できたら……)
 しかし、残念ながら二人とも無理だった。シエーアは召喚の対象として適したものがなく、エルはそもそも術を知らない。
 などと思い悩んでいたところ……。
「きゃっ!?」
 見事に顔面から地面に突っ込むエル。
「う、う……」
 (はっきりいって、これは痛い。とんでもなく痛いわ!)
 目を丸くしているシエーアの前で、エルは顔を手で覆いながらヨロヨロと起き上がる。
「だ、大丈夫……? 今のは、かなり痛烈だったみたいだけど……」
「な、なによ! なんでこんなとこに木の根っこがあるわけ!?」
 どうやら、考え事に集中するあまり、足元への注意がおろそかになったらしい。見れば、土と岩とに混じって、大きな木の根が顔を出している。妙な縞模様の刻まれた茎のような特徴のある根。その根からは、いくつか芽のようなものが枝分かれし、地上を目指していた。もし、まともにその上に転んでいたら……。
 (串刺しになるとこだったわ……)
「……エル。取り敢えず顔を拭きなよ。こういう暗いとこだと、かなり恐いよ……」
「え、あ、そ、そう?」
 ハンカチを取り出して、顔を拭う。白い布が、茶色と、所々赤に染まっている。その布の向こうに、憎らしい根が見えた。蹴り飛ばしてやろうと思って足を振り上げたところで、ふと思いついて、エルは言った。
「ねぇ、シエーア」
「あ、別に、顔を拭いたら、一層、激しい顔になったなぁなんて全然思ってないよ」
 そんなこと思っていたのか、こいつは。右手で拳を握り締めつつも、エルは極めて穏やかに聞いたのだった。
「あなた、植物促成系の呪文は使えるって言ってたわよね?」
 
 その部屋は、荘厳な沈黙に満ちていた。世の喧騒を一切許さぬ絶対的な権威、その存在を感じさせる何かが、そこにはあった。やがて、衣擦れの音が近づいてくるのが聞こえ、扉のきしむ音が、沈黙を破った。
「神はその光もて、我らが行く道を照らさん。……役目、大儀である」
「恐悦至極に存じます、猊下」
 再び、衣擦れの音。
「して、現況は?」
「確認しました。《その者》でございます」
「……そうか。確かであろうな?」
「はい。間違いないかと」
「ふむ……。漸く、か……。では、次の段階に進むべきとき、だな」
「御意。既に、手を打っております」
 甦る沈黙。床を覆う、深紅の絨毯の弾力ある毛が、全ての音を吸い尽くす。
「……些か、拙速に過ぎるのではないか?」
「残された時が少ないが故なれば。何卒、御寛恕願いたく……」
「……試練、よの……。《その者》との《絆》となるべきもの、か。そなたが目をかけていたと聞くが……」
「ここで死すれば、それまでのもの。もとより《絆》は生死を問わぬものなれば」
「……そこまで申すならば、敢えて咎めはせぬ。好きなように致せ」
 低い、声音。それには重みがあった。そして、威厳の中に潜む傲慢も。
「はい。約束の地への道標、罪人への免罪符……手放すわけには参りませぬ故」
「《紅亡の星》が天にかかり、繰り返す運命の書は、再び、終わらざる終わりに届かんとす。天文方も騒ぎ始めた。くれぐれも失敗せぬよう……」
「承知しております」
「そなたに神の正しき導きのあらんことを、Amen」
「Amen」
 部屋を照らす、数多の蝋燭のうち、一つが、微風に揺れた。
 
 (まさか、そんな筈は……)
 矢弾を補給し、次の標的を決めながらティオレはずっと考えていた。何度考えても、思考はそこへと戻ってくる。
 逃げ道のない、閉鎖された空間。謎の声が聞こえ出して久しいが、おそらく空間が閉じられたときは、その、聞こえ出した瞬間だったろう。他ならぬこの地で、このような術を使いうる術者は、そうそういるものではない。が、ティオレは一人だけ心当たりがあった。
 有り得ない。第一、どのような利点があるというのだ、このようなことをして?
 その思いに囚われ過ぎたか、気づくと、一体の死者の接近を許してしまっていた。ゆっくりと振るわれた爪をすんでのところで躱す。黒髪が数本、宙に舞う。
「大丈夫か!?」
 よろめき、後ろに倒れかけたティオレを、咄嗟に抱きとめるクオン。
「っと!」
 自身に較べれば小柄な彼女の頭が、胸の上に、肩にふわっと納まった。
 思ったよりも、遥かに軽い身体。剣を振りながらでも、容易に抱えられる。
「……すみません、クオン」
 身を起こす余裕もなく、そのまますぐにクロスボウを構え直すティオレ。そして狙いをつけ、撃つ。
 周囲への注意がおろそかになるとは、自分はまだまだ未熟だ、ティオレは思わざるを得なかった。いや、違う。未熟さも勿論あるが、もう、そうするだけの余力がない? ティオレは冷静に自分を見つめた。そしてもう一度、考える。今度は今まさに必要なことを。今の自分に出来ること。それが何であるかを。
 同じ時、クオンは初めて、危機感を覚えた。
 (ヤバい……)
 ティオレを抱きながら、ぞくりと悪寒が背筋を走るのを、クオンは感じた。ティオレはもう限界だ。本人はまだ気づいていないようだが、反射速度も確実に落ちている。その強靭な精神力が、彼女のか弱い妙齢の女性の身体を支えてきていた。が、それも限度がある。できれば休ませてやりたいが……。しかし、自分にも余裕があるわけではない。二人とも、とても無傷といえる状態ではなかった。援軍がこなければ、このまま押し負ける。そして、その援軍は底知れぬ穴の底から、未だ現れる気配はない。それなりに実力はあるだろうが、魔術師は魔術師だ。不意をつかれれば、どうなるか分からない。シエーアとエルの助けは期待しない方がいいだろう。
「……クオン」
 はっと、その声に耳を傾ける。
「バレットが尽きました。《聖弾》を使います。その後はありません」
 《聖弾》とは、教会特別製の矢のことだろう。数が準備できるものではないから、使用を差し控えていたのだろうが。
「ですが、考えがあります。《聖弾》を利用して邪悪を退ける結界を張ります」
 そう。もう、私には他に手が残されていない。神の御業の恩恵によく浴し得ぬこの身では。一抹の寂しさと共に、ティオレは考える。まさか、この程度の相手にここまで追い詰められるとは、夢にも思わなかった。これも私の未熟さ故か……。『七門の陣』。教会に伝わる強力な退魔陣。それが使われれば、その使用した事実そのものが、教会へのメッセージになる筈だ。たとえ『閉じた空間』の術といえども、さらなる異空間、即ち神の座する天界の末端を呼び込めば、それを隠し通すことは出来ない。うまくいけば術を破ることも出来る筈だ。何れにせよ直ちに修道騎士が参集してくるだろう。そうすれば、少なくともクオンを助けることは出来る。クオンは、クオンだけは何としても守り通さねばならない。この、巻物の所持者だけは……!
 そこで、ティオレは少しの間、目を閉じた。放り出された荷物。そこから顔を除かせる巻物……。間違いない。
 だが。万が一、それすらも罠だったらどうする? 空間を閉鎖しうる人物を心に思い浮かべて、逡巡する。有り得ない筈。彼は自分が尊敬する唯一人の人物だ。とはいえ、エルが語った教会内の不協和音は、決して否定し得ない事実でもある。否。彼が彼女を裏切ることは有り得ない。決して。
 ……そして。何を信じるか。何を為すべきか。彼女は結論を出した。
 
「ここを基点にして、前方に二十歩。そこを中心に七芒星を描くように《聖弾》を大地に突き刺します。援護して下さい」
「待てっ!」
 斉射により生まれた僅かな空隙の間に、ティオレは最後に残された矢弾を取り出していた。すぐにその場に一本を突き刺す。残りの数は五。七芒星の頂点を描くには一つ足りない。
「一発足りないじゃないかっ!」
 そうだ。もし、最初から結界が張れるのだったら、ティオレはとっくに張っていただろう。それをギリギリまでしなかったということは……。
 そのとき、ティオレが、彼の、クオンの懐からすっと一歩前へ出た。
 その黒髪が頬に触れた気がした。彼女の頭の動きに、戦の撒き散らす血風に、その夜を塗り固めたような滑らかな輝きをもつ、持ち重りのしそうな彼女の髪が、揺れたのだった。凛とした張り詰めた空気が彼女の周りを漂う。
 それは不思議と淫らで官能的で、彼の心を惹きつけた。思わず、その髪に口付けし、顔を埋めてみたいという欲求……いや欲情にかられた。巻物にあの文言が浮かんでよりずっと、どこかで抱いていた疑念が消えようとしていた。このとき、クオンは確かに奪われたのだ。よって立つべきもの、人の人たる所以、人を人たらしめる魂の座を。その心を……。
 彼女は既に走り出していた。やむを得ず、横に並び、更に前に回りこんで次の頂点への道を切り開く。
 二本。三本。四本。
 突き刺すたびに、何かの呪文を唱えるティオレ。その度に不可思議な輝きが陣を結んでいく。
 五本。六本。
 その道を切り開くのは、決して難しいことではなかった。ただ、そこを走るのは容易なことではなかったが。ぐちゃりと潰れる肉塊の感触を踏みしめながら、滑らないように、つまずかないように、着実に歩を進める。
 気づけば、最後の頂点に来ていた。
「……クオン」
 発せられた彼女の言葉には、無視し得ない重みがあった。そして、クオンは不意に理解した。彼女が、次を、口にする最後の言葉にしようとしていることを。そういえば彼女は、いつから、彼のことをクオンと呼ぶようになったのだろう。それは、彼と彼女の間に芽生えつつあった、仲間の絆の現れだった。その絆が今、皮肉にも二人を引き裂こうとしている。
「この結界は、外と内の空間を切り離します。残念ながら、内部の敵を滅することは出来ませんが、少なくとも数が増えることはもうありません。クオンさんなら、不覚をとることはないでしょう」
 彼女は掌を地面にあてた。
「それで、きみはどうなる?」
「結界の一部になります。本来なら、この術は複数の祭司がいなければ使えないもの。でも、私は修行が不足しているので、他にすべを知らないのです」
 心が揺れる。余分に力が入り、剣の軌道が僅かに狂う。彼女を守るためにかざす盾がぶれる。
「やめろ! ティオレっ!」
「他に手はありません」
 ティオレは僅かに微笑んだ。気高い、透き通った微笑み。そこには何の躊躇いも未練も強がりもみえなかった。そう、それは純粋な微笑みだった。
 呪文が紡がれ、更に陣が形成される。光が収束し、不可思議な力が天空より降り来ろうとしているのが、魔法を知らぬクオンにも確かに感じられた。
「やめろーっ!」
 
 そのとき。
 大地が引き裂かれた。
 そして、何かが視界を塞いだ。何か、巨大なものが。
 突如、生えてきた巨木。それは、頭上を覆うように枝を伸ばし、葉を広げ、自らの存在を下界に誇示し、大地に這いつくばる者達を睥睨した。生あるものの力を持って。
 クオンとティオレ、二人の周りを、不浄なる死者の群れを突き破りつつ天に向けて樹木が伸びゆく。そして、降り注ぐ業火の雨。間断なく降り注ぐ火弾は正確に二人を避けていたが、貪欲にその紅蓮の舌に舐めさせる範囲を広げていた。次々と吹き飛ばされ、燃え尽き、消滅していく《生ける死者》たち。そのあまりに膨大な熱量に、空気がゆらぎ、視界が歪む。土の一部が溶解して再び固まり、さらさらとした砂の輝きを放つ。見惚れるほどに美しく赤い炎が一瞬にして周囲を包み込んでいた。純然たる破壊の力となって。ふと気づけば、足元に描かれつつあった光の軌道は消え、陣が消滅していた。
「ごっめーん。遅くなっちゃったー!」
「クオン、ティオレ、まだ生きてるんでしょうね!? 折角、苦労して助けに来たんだから、力尽きてるってのはあまりに興ざめだからね!」
 頼もしい声の元を辿っていくと、巨木の枝の上でひらひらと手を振っているシエーアと、偉そうに、だが危なっかしく同じ枝の上に腕を組んで仁王立ちしているエルの姿があった。
「……まさか、ずっとねらってたんじゃ、ないよな?」
 安堵のあまりクオンが漏らした言葉は、結局この一言だった。
 
「ありゃ、皆、どこいっちまったんだ?」
 うち捨てられた教会の、入ったすぐの間には、誰もいないようだった。
 内部は相変わらず暗かった。とはいえ、シーフとして場数を踏んできた彼なれば、間違えるはずもない。
 (ここには誰もいない。シエーアも、仲間も、誰も……)
 先に地下に下りてしまったのかと、あの部屋へ向かう。壊れかけた天井や、ところどころ崩れた壁から射す光を頼りに。こんな場所だから、お宝もある筈もなく、寄り道せずにあっさりと辿りつく。すると、そこにある例の穴の縁にロープがかかっていた。特にどこかに結び付けている訳でもなさそうだが、魔法のロープだろうか。そういえば、不可思議な色を放っている。
「シエーア……じゃないよな、エルかな?」
 下の方から、何か、話し声のようなものが聞こえてくる。
「まったく、お嬢さん方ときたら、こんなときでも賑やかなことで。華やかで結構でござんすね」
 縄を扱うのはお手の物。ジェッターはするすると器用にそのロープを降りつたっていった。
「おいおい、意外と深いじゃねーの」
 どれくらい降りただろうか。目の前には、洞窟が広がっている。というか、広がっていると思われる。気配ではそう感じるのだが、なにしろ、真っ暗闇だから、何も見えない。
「また、置いてかれたーっ!?」
 とにかく、地面に足を下ろし、ロープから手を離す。
「まったく、先に行くなら、光源くらいおいとけっての。危ないったらありゃしないぜ」
 手馴れた手つきでベルトポーチから火口箱を取り出し、もう一方の手に持った小型の燭台に火をつける。燭台は振り回しても蝋燭が倒れないように細工されており、蝋燭自体も消えにくく長持ちするものを使った盗賊稼業に欠かせない小道具の一つだ。
 光源を手にして、あらためて周囲を見回す。間違いない。自然の洞窟のようだ……が。
「おや?」
 よく見ると、左手は自然のままのようだが、右手に伸びる洞窟は、床面が人工的に削られているようだ。壁面をみると、先のほうに、燭台らしきものが幾つか嵌めこまれているのが分かる。
「ほほう。さしずめ、秘密の地下宝物庫への扉ってとこか。うひょ!」
 都合の良い想像に、喜びの声を挙げると、その先の方で、明かりがよぎった。合わせて声も聞こえたようだった。
「おおーい、オレッチを忘れないでおくれよシエーアちゃん。お宝の独り占めはダメダメよーん」
 さすがに本職だけあって、こんなときでも罠を警戒しつつ、足取りも軽くジェッターはその明かりのほうへと向かった。
 そこは。部屋というよりは、広間だった。教会の礼拝堂から、椅子を取り払ったらこのような感じであろうといった空間。その奥の祭壇の上に、何かが見えた。ボロボロに朽ちた赤い布が覆うその上に、不可思議な魔法陣があった。彼が過去に目にしたものとは違い、黒い光を放つそれは、何やら禍々しく何かを招くように脈動しているようだった。
 その傍らに立つ、炎を身に纏ったような女性が語る。
「ここは、教会に敵対するものを裁くために使われた、秘密の部屋」
 彼女は、その少々大袈裟な感じのする身振りで、部屋の床を指した。
「そこかしこに残る黒い染みは、罪無き人々の流した苦悶の血涙の跡……」
「なんだって?」
「巻物を持つもので、抵抗する術をもたなかった弱者には、このような悲惨な末路を辿った者が少なくない……」
 そういうと、その女性は、エルの姿は掻き消えた。そう。最初から何も存在していなかったように。
 続いて、もう一人の少女が語り出した。
「ここには、そうした人々の怨念が眠っている。だから、教会はここを封印し閉鎖した。己の暗部と共に」
「おい、シエーア……」
 何か、尋常ではないことが起きている。無意識のうちに、ジェッターは武器を構え、臨戦体制に入っていた。首は祭壇の方向に向けたまま、目だけで周囲を伺う。いつでも、どこへでも動けるように。
 だが、目の前の少女はそれを気にすることなく、平板な声で、そうシエーアでは決して有り得ない、感情の一切こもっていない冷たい声で話し続けた。
「そして、教会のある男が、更にこの怨念を、無念なる死者の思いを呼び覚まし、利用している」
 そこで、シエーアもまた、姿を消した。跡形も無く。後には、唯、祭壇と、その上の不気味に脈打つ、闇よりもなお暗い光を放つ魔法陣があるだけだった。
「な、なんだ!?」
 暫く、じっと様子を伺ってみる。
 何も現れず、何も起きない。
「……ふむ。ここで逃げ帰るってのもなー。オレッチ、手ぶらってのは嫌いなのよねー」
 警戒しつつも、この露骨に怪しげな祭壇に近づいてみる。よく見てみると、この教会と、近辺の地図の上に、魔法陣は描かれている。その中心は、まさにこの祭壇だった。そして、街から教会に向かう道にあたるところに、何やら灰のようなものが円状に播かれていた。それは、魔法陣の脈動に呼応して、燠火のように鈍く赤く輝いたかと思うと、もぞもぞと、円からその円の芯に向けて蛆虫のように這いずり回る小粒の灰の塊を、無数に産み出しているのだった。
「うげ、気持ちわりー。……とりあえず、オレッチの手に負えるもんじゃなさそうだけどなぁ……って専門家のシエーアちゃんは何処かしらん?」
 取り敢えず、独り言で自分を勇気付けてみようとしたところで。
「残念ながら、暫く彼女とは会えないわ。宿命の者よ」
 声がした。
(なんだとっ!?)
 ぱっと、臨戦体制で振り向く。手には短剣がいつでも使えるように構えられていた。だが……。
「誰もいない……わけじゃねぇよな?」
「くす……あなたには、私を見ることは難しいでしょうね……」
 また背後から声が聞こえてきた。今度は首だけを動かして確認する。やはり誰もいなかった。ただ、暗闇に、手にした燭台の光が頼りなく部屋を照らすのみ。
「待っていたのよ。あなたが一人になるのを」
「それは、光栄だねぇ。美女に待たれるとは男冥利に尽きるというものさ」
「……まぁ、面白いことを。姿を見ることが出来ないというのに」
「その声でわかるさ。美しい声は美貌に宿る。オレッチは女を見る目は確かなんだぜ!」
 軽口を叩きながらも、ジェッターは全く警戒を解かない。特に、魔法陣に視線を戻し、何か起こらないかを注視する。
「ふふ。気に入ったわ。こういう状況でなければお誘いするところだけれど……。あら、その魔法陣が気になるの?」
「まあねー。職業がら、珍しいものは気になっていけない。おっと、浮気してるわけじゃないよん」
「くすくす。本当に面白い人。なら、その魔法陣の正体を教えてあげましょう。それは、ある教会のある男が仕掛けていったもの。そう、あなた達へ天からのささやかな贈り物、というところかしら」
「ほほー。教会のねぇ」
「あら、信じてくれないの? でも、いいの。どうせあなたは、これからその真実を自ら語ることになる。……話を続けるわね。その男はね、あなた達の誰かにとても興味があるのよ。とってもね。だから、見張り役をもぐりこませたの」
「ああ、いるねぇ、そういうの。 あ、オレッチは違うぜ。興味があることは人の手借りずに自分で調べるからね。男らしいっしょ!」
 魔法陣は相変わらず、もぞもぞと動いている部分はみえるものの、先程と変わったところはない。
 (ならば、一旦、引くのが名戦士、いや名盗賊ってもんだろうな)
 話を合わせながら、一歩、また一歩、入り口のほうへとにじり寄っていく。
「益々気に入ったわ。次に男は、他の気に入らない連中はいなくなったらいいなと考えた」
「陰険だねぇ。とても男の風上におけないねぇ」
「そうよね。で、その男は、どうするかと思案してここを利用することにしたの。教会の管理下にありながら、適度の危険をはらむ場所を、ね。
「危険ってのは何かな? 参考までに聞くけど?」
 よし、半分の位置にきた、あと少しだ。
「さあ? 何でも人に尋ねて済ますのは感心しないわ。あとは自分で考えてね」
 ジェッターは、はっと気づいた。身体が動かない。
「あなたは魔術に対する耐性が、一番低い……今度ばかりは、斥候としての才が裏目に出たようね……」
 虚空に浮かぶ赤い瞳。他に何も見えない。迫りくる瞳、それだけが頭を占め、あらゆる感情が溶けて消えていく。遠くなる肉体。失われていく五感。無。苦痛も何も感じない、虚無の海。心が悲鳴を上げながらたゆたうのが遥か彼方に感じられた。
「あなたの身体、暫し、借り受けるわよ。心配要らないわ。ほんの少しの間、死んでもらうだけだから……くすくす」
 最後にジェッターが意識したのは、楽しげな女の笑い声だけだった。


Written by artemis (04.02.10)
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