JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





四周目一番



 白い時が溶けおちていく。
 白に満たされた眩さが視界を覆い尽くす。
 瞳の奥を刺し貫く、決して逃れえぬ感覚。
 死から生への帰属を実感する瞬間。
 どこからか理性と理解のほんの一片の欠片が甦ってくる。
 柔らかい感触が頬をくすぐり、程よい暖かみに心地良さを覚える。その、そよと駆け抜けたものが風というものだと、おぼろげながらに言葉が思い浮かび、再び消えていく。ただ、それを感じながら、身を任せたくなる気だるい鈍い快楽に暫したゆたう……。そして……。
 唐突に自己の存在を認識し、肉体を支配する意識に目覚めた。
 目蓋を上げると、先程まで楽しんでいた光の世界とは異なる白い広がりが目に付いた。
 白い、天井。どことなく寒々しくよそよそしい、排他的な冷たさを演出する反射光を湛えた、磨き上げられた純白。
「ここは……」
 その呟きは、疑問ではなく確認のものだった。
 そっと、身を起こす。片手をついて、身体を支えながら。
 その指先に纏わりつく白い布に、幾筋もの蒼い翳が走り、絡み合う。白の丘と蒼の谷。複雑な交わりが織り成す淡い陰影。それら凹凸が生み出した儚い芸術品の下からゆっくりと素足が抜き出され、床に触れる。
 海獣の脂でも塗りこまれているのであろうか。
 滑らかに金色めいた光沢を放つ、茶と黄土の色合いを持った正方形の板が交互に嵌め込まれた床面はしかし、想像したよりもしっとりと肌に馴染む感じがした。
 己の重みを感じる掌の下には、大きさの割りに、全く装飾とは無縁な寝台。
 真っ直ぐ正面を捉える視線の先には、小さな木製のテーブル。その盤面を独占せんとするかの如き、大輪の紅の花を挿した碧玉の花瓶の華麗さは、背景なる白壁には些か不似合いに思えた。
「……姉さんの……」
 今度の言葉も、疑念はなく、確信に満ちたものだった。
 溜息とともに、立ち上がろうとしたものの、足がもつれてしまい、弾力ある布の山にくず折れてしまう。思うように、四肢が動かない。動かせない。
 ……まだ、身体が目覚めきっていないのだろうか。いや、どちらかというと、術の影響だろう。
 じっと、手の甲を、そしてその先に伸びる指先を見つめる。いつもと変わらない、あまりにも見慣れている筈のそれは、しかし、ほんの少しの違和感を感じさせる。
 例えば、爪の向こうに透けて見える薄桃色。これほどには、本来の自分のものは、血の熱さを感じさせはしない。
 強力な治癒魔法の影響だ。魂の傷をも癒すほどの高位魔術の。
 ぼんやりと、己の熱っぽい身体を眺めながら、ここにはいない人物に向けて、小さく不満を述べてみる。
「私は《かの者》の守護者。神の御名にて導く者……。でも、私はここにいる……」
 目を閉じると、姉の、自分にだけ分かる、自分にだけに向けられる心配そうな怒り顔が思い出された。
 旅に出る為、とにかく経緯と現状の報告をせねばなるまいと教会を訪ったところだった。迎えたのは、上司のいつもと変わらぬ涼しげな顔と、滅多に顔をあわせることのない姉の酷薄なまでに冷静な表情。湛えられているはずの、慈母のようと評されるその笑みはだが、その欠片すらも浮かべられてはいなかった。
 幾つかの言葉のやりとり。
 その結果として。
 彼女は今、ここにいる。
 あの、巻物の所持者の傍らではなく。
 あの、紅亡の星の不吉な嘲笑の下ではなく。
 知る者を思い煩わせる、ほんの僅かな煌き。知る者でなければ、魔性の美しさに眩まされ、ただ称えられるのみであろう血の色をした天の宝石。その麗しくもおぞましき光輝の残滓を振り払うかのように首を振る。
「私は、そんなに頼りない?」
 複雑な想いを締め括るように瞼に思い浮かぶのは、立ち去る姉の後姿。
 優しさと暖かさ、いつも身にまとっている筈のそれを打ち消して、彼女は教会を出て行く。その、彼女のもらした最後の一言が、棘のように心の深奥に突き刺さっていた。
 二人でいるときには、決して知り得ない彼女のもう一つの姿。
 その、一なる別人の唇がもたらした、心の闇。
 白い、闇。
 目を開く。
 室内を照らす陽光。
 その、神の纏いし衣、或いは天使が歩む天上への道を思わせる柔らかい光に満ちた窓を振り返る。その向こうには、どこまでも澄んだ蒼天が広がっていた。
「……何をするつもりなの。姉さん……」

 違和感があった。
 さほど長い付き合いではない。
 むしろ、仲間と呼ぶことが不自然なほどの短い交友。だが、それでも、彼女には何かの変化があったとしか思えなかった。
 クオンは思案しながら、全身を黒一色に包み込んだ乙女を、見るともなしに見つめていた。
 いい加減飽きたのか、それとも暑さに参っているのか。
 シエーアにせよジェッターにせよ、そのクオンの一心な視線をからかうことを止めていた。
 否。
 彼らの態度の変容の原因は、そのようなものではない。断じて。
 前日まで共に語らい、今はここにいない者が、そのような行為を慎ませているのだ。赤い髪を持つ、クオンにとっては、命の恩人ともいえる女性。
 本当に短い期間の運命の軌跡の交錯。
 だが、その軌跡の一つが途切れたとき、その交点は黒く闇の色に染め上げられたのかもしれなかった。
 悔恨と哀悼の帷。
 凍りついたような空気の中、誰もが、無口に、ただ為すべきことだけを為している。
 溜息すら大きく響く沈黙のもと、クオンは思い続ける。
 そうだ。エルの死には不可解なことが多過ぎる。
 無くなった巻物。
 血に染まった水場。
 そして……。
 そして、思い出すことのなかった、思い出すことのできなかった、彼女自身の存在。
 徐々に、というよりは、突然に甦った、或いは不意に記憶の空白の中に産み落とされた、彼女の名。彼女が紡ぎ、我が目の前に踊る、心を捉えて放さない不可思議な炎の舞踏。
 他の者がどこまで理解しているのか、クオンには判断がつかなかった。
 しかし。
 もし、その意味するところを正確に知りうる者がいるのならば……。
「……やっぱり、確認すべきだろうなぁ……」
 声にすることで、自らに意を決させると、クオンは近づいていった。
 かつて、彼を守ろうと命を賭してくれた、どのようなときも凛とした雰囲気を失わない彼女へ、と。

 彼が近づいてくる。
 躊躇いがちに、歩を進めてくる。
 逡巡が全身から感じとれる。
 その様子から、彼の思っていること、考えていることが、手に取るように分かる。
 まぁ、ここまでが限界だろう。肉体はおろか魂すら分かち合う姉妹とはいえ、普段は顔を合わせることの無い二人だ。いつまでも騙し通せる筈も無い。いや、騙され続けるような連中では、あの子を一緒にいさせる訳にはいかない。だが、彼はあの子に好意を持っているようだし、なかなか見どころがある若者と聞いている。
 教会の意思はともかくとして。
 彼が、あの子が命を賭けただけの価値のある人物かどうか、一つみせて貰うとしよう。
「どうかしましたか? クオン」
 憂いを込めた瞳で、下から見上げるように。
 見つめる。
 彼の顔だけを。
「あ、ああ……ええーっと、ちょっといいかな」
 ふふ。
 可愛い。
 これくらいで、動揺するなんて。
「手は空いています」
「いや、うーん……ここでは、ちぃっとばかし……」
「?」
 少しばかり、苛めたくなってしまう。
 でも、それでは話が進まないものね。
「……内密の話ですか?」
「うん」
「分かりました。水場に行きましょう」
「……!」
 痛ましさを伴う驚愕の表情。
 そう。私を思いやってくれるの。
 やはり、心根は優しいのね。
「花を手向けようと、思っていたところです……」

 小さな漣が、描かれた水辺の風景をかき乱していた。
 汀の緑と茶に、僅かながら紅の痕跡が見られる気もしたが、あのときの不吉な朱染めはほとんどが、この場からは洗い流されているようだった。
 木立から身を休めていたのであろう小鳥が、慌しげに飛び立ち、やがて、下生えを踏みしめる音が近づいてきた。
 若い男女。
 男の方は深刻気な、思い悩んだ表情を浮かべ、女の方は無表情を装ってはいるが、どこかしら無理があるようにみえた。
 白い小さな花が、ほんの少しだけ手にされている。
 それは、彼女の手を離れると、新たな波紋を供として、水面に鎮魂の調べを奏でた。
「Amen……。……エルには、相応しい祈りの言葉ではないかもしれませんが」
「……」
 男は、ただ黙祷を奉げたのみだった。
 自然の中に醸し出される、些か重々しすぎる清浄なる静謐。
 その静穏の中に刻まれた一人の名に、クオンは、目の前の女性は知っているのだということを感じた。
 そして、ある疑念が明確に形をとろうとしていることも。
「……それで?」
 木立の中を駆け巡る、葉々の密やかな会話が聞こえるような暫しの静寂を破ったのは、女の方。応えるは、閉じていた目を複雑な感情に揺らがせながら開いた男。
「ああ、うん。こういうときになんなんだが……」
「……」
「ええと、なんと言ったらいいのか……」
 この期に及んでも、クオンは何をどういったらいいのか、判断を下しあぐねていた。
「思うままを口にしないことは美徳ではあります。ですが、場面を選ばなければ」
 そう言うと、まるで辺りに漂う悲しみを凝固させたかのような闇黒を身に着けた女は立ち上がった。
「うーん。取り敢えず、こういうことになってしまった、経緯を聞かせてもらえないかなぁ、とか」
 自分よりも背の低い彼女に、気圧された様におずおずと言葉を返すクオン。
「……わかりました」
 一瞬、視線が絡み合い、そして離れる。
 水の音が、間奏のようにゆったりと時を刻んだ。
「あの晩、エルは我々に幻惑の魔術を使いました。あなたの巻物を奪うためです。私は、辛うじてその術の影響を脱して、彼女を追いました。この場で彼女に追いつき、対峙することになったのですが、第三者の介入があり、牽制のつもりで放った矢が……」
 瞳が潤み、声が湿る。
 その様子を見て、クオンは疑念が確信に変わるのを感じた。
 この女は、ティオレではない。
 決して。
 彼女なら、絶対に人前で感情を顕わにすることはないだろう。残念ながら、自分の前ででも。
「……成程。で、その話はどこまでが本当なのかね?」
「……私が、嘘をついているというのですか?」
「さあ? だが、信用できないとは言っている」
「何故?」
「他人になりすますような連中に信用できる人間はいないと、我が家の家訓にあるんでね」
 僅かな間。
 時が凍りつく。
 だが、その一瞬を縫って、刃の冷たい輝きが、乙女の白い首筋を飾った。
「生憎と騙されるのは好きじゃないんだ。事と次第によっては、只ではすまんぞ」
 あまり、迫力があるとは言い難い、どちらかというと柔和なクオンの眼が、鋭く細められる。
「フィアナ・グローライト!!」

「……ふう」
 女は、一つ溜息をつくと、鋼の脅威に恐れをなした風もなく、髪に手をやった。
「よく、あの子のことを見ているのね? そんなにあの子が好きなの?」
 口調が変わった。
 声は同じだが、抑揚が明確になり、情感豊かに感じられる。
 雰囲気が変わった。
 作ったような緊張感、偽りの無表情が氷解する。
「ティオレはどうした?」
 クオンは、彼女の質問に僅かながら頬を赤く染めたようだったが、言葉にしては、そう問うただけだった。
 剣が微かに揺らめき、銀の軌跡が腰に収まる。本当に小さな鋼の擦過音が、鈴の音のように音楽的に響いた。
 照れ隠しなのか、そのまま腕を組み、憮然とした顔をフィアナに向ける。意外なことに、悪戯っ子のような楽しげな微笑みが、彼女の顔に浮かんでいた。
「安心して下さい。あの子は、ティオレは、今、安全なところでその身を癒しています。さぁ、そんなに怯えた獣のように警戒しないで下さい。あなたには、知っておくべきことをお教えしますから」

 水辺の風は、適度な湿気を含み、強い陽光に負けない涼やかさを保って吹き抜けていく。
 その見えざる手が、無表情な水面を愛撫し、さんざめく輝きの笑い声を呼び起こす。
 クオンとフィアナは、この、かつての朱染めの舞台の傍らで、話を続けていた。
 彼女の話は、クオンにとっては理解し難いことだらけだった。
「まずは、ティオレのことを話しておきます」
 演技をやめてみれば、姿は同じでも、雰囲気は遥かに柔らかい穏やかさを湛えたものだった。流石は聖職者ということか、その絶えない微笑みは、慈母のよう。或いは、こちらの方が作り物なのかもしれないが。
 その、人に安らぎを齎す笑みを浮かべたままで、彼女は語る。
 ティオレは『七門の陣』なる術で、本人も気づいてはいないことだが、肉体も万全ではない上に、むしろ魂に深刻な傷を負っていること。それをより早く癒すために、教会に残さざるを得なかったこと。
「今は、束の間の休息に、色々と言いたい事を言ってるでしょうね」
 ふふ、その様が目に浮かぶようです、と、彼女は笑った。
「……成程。ティオレのことは分かった。それで? なんでオレ達を騙すような真似をした?」
「巻物とティオレが狙われていたからです」
「ふむ?」
 クオンの眉がぴくりと反応した。
「あの子は、クロスボウを使うことについては一人前だけど、それ以外はあまり褒められたものではないの。あなたが傷を負ったときのことを考えれば、分かると思います。その上、さっきも言ったように、身も心も消耗していますし、ね」
 かつて、ティオレを襲った者は取り逃がし、尚且つ、巻物を失いかけたという事実。
 そこから導かれた、ティオレを休ませるだけでなく、これを機にその相手を引き摺り出すという目的。
「だから、ここにいるのはティオレでなくてはならなかったのです」
 彼女の言葉は淀みなかった。
 かえって、疑念を抱きかねないほどに。
「でも、まさかエルさんが、巻物を狙っているとは思いませんでしたけれど」
 フィアナは、再び、表情を曇らせた。
 事情はどうあれ、彼女は本気で今回の出来事を痛みをもって捉えているようだった。
「確かにな。エルの行動は不可解極まりない」
 フィアナの語る経緯と、クオン自身が知る事実。或いは、知っていると信じるもの。
 クオンは、それらを結び合わせ、エルの行動を辿り、推測し、その裏にあるものを探そうとした。
 エルが巻物を狙ったのは、確かなようだ。
 だが、それなら何故、このような回りくどいことをしたのだろう?
 クオンと巻物のことを知っているからこそ、わざわざ接近してきたのだろうし、それならば、最初から巻物を取り上げれば済むことだ。それこそ、彼女のような実力者なら、宿屋で寝ている間など、幾らでも気づかれずに奪える機会があっただろう。
 ということは、宿を出てから後、彼女が巻物を必要とする何かがあったのだろうか?
 それとも、他に目的を持っていたのか?
 そして、エルを切り裂いた人物とは?
 何故。何が。誰が。
 ――結局のところ。
 クオンには、疑問を持つ以外に出来ることはなかった。
 それにしても、とクオンは思う。
「あの巻物は、そんなに価値のあるものかねぇ……?」
 確かに、予言の標なのかもしれない。
 だが、考えてみれば、巻物の言葉に囚われて、いつの間にか自分のとりうる選択というものの範囲を、自ら狭めていた気はする。そういう意味で、徐々に自分で判断できなくなっていったというシエーアの兄の話は、他人事ではないと、今は思えるのだった。
「私は、巻物自体には、あまり価値はないと思っています」
 フィアナは答えた。
 そして、心の中で付け足す。
 巻物ではなく、巻物の所持者である、あなたの行動に価値があるのです。その結果として、巻物が重要性を帯びているに過ぎないのです……。
 だが、口にしたのは、結局、
「ですが、人が何に価値を見出すかまでは、神ならぬ身には分かり得ぬことです」
 という言葉だけだった。
「そりゃま、そうか」
 クオンは、あっさりと納得したようだった。
「で。ティオレを狙っている輩ってのは、見当がついたのか?」
「残念ながら。あなたも、一緒にいて分かっているでしょうが、これまでのところ接触してきた者はいませんから……。狙われる理由が分かれば、推測も可能なのですが」
 フィアナは鏡のような水面に視線をうつした。
 後ろめたさを、その透明なる煌きに溶かしきりたいと願うかのように……。
 ティオレを、正確には教会の者を排除しようというエルの言葉を、クオンに伝えるわけにはいかなかった。
 ……ティオレが狙われているのは、クオン、あなたと共にあるからなのよ。
 フィアナは、只管に任務に忠実であろうとする妹を想った。本当のことを伝えてしまえば、教会の意志が、我々の目指す先が、クオンに悟られてしまいかねない。
 今はまだ、その時期ではない。
 天秤は未だ傾くべき方向を定めかね、揺れ動いている状態にあった。
 髪の毛一筋ほどの重さですら、流れを変え、事を決しかねない。
 ここで危険を冒すわけにはいかないのだ。
「私は、このまま、囮役を続けていようと思います。何れは何らかの反応があるでしょう」
 実際には、エルがいなくなった以上、それはあるまい。
 一応は、我々が優位に立ったということだ。
 非常に不安定なものではあるが、優勢であることには違いない。
「そうか……まぁ、止めはしないが……」
 クオンは心配げにフィアナの横顔を見つめた。
 思わず、ティオレの面影が重なり、どぎまぎする。
 それを気取られないように咄嗟に視線をそらす、さりげなくも必死な努力。
「オレが気づくくらいだ。他の連中も感づいているんじゃないかな」
「それは、別に構いません」
 そう。
 既に、所期の目的は果たした。
 あとは、時間が稼げればいい。
「それよりも、私は今後の方針が気になります。どうするおつもりですか?」
 フィアナは、視線を上げ、そしてクオンをまともに見返した。
「あ、いや、うーん……正直、思いつかないんだよ。元々、オレ自身はっきりした目的を持ってなかったし。成り行きまかせな旅ってのは否定できないからなぁ……」
「そう、ですか……では、私から提案があるのですが」
「え?」
 クオンは目を瞬かせた。
「……行ってみませんか? 神の都、予言と預言者と伝説の交錯する聖都イスティーアへ……」

 暗闇を、更なる暗黒をもって孔を穿つ。
 穿たれた孔の向こうに広がる、歪なる時空。
 空間と空間を繋ぐ、魔法を扱うものだけが足を運べる、見えざる回廊。
 一瞬で、それを飛び越え、光を放つ更なる孔へと向かう。
 その光の彼方には……。
「やれやれ……」
 黄皇の月の、欠けたとはいえ圧倒的な光量を持つ夜の陽光が、黒々としたざわめく木々を照らしていた。
 決して豊かではない暗緑色の群れ。
 だが、視界を遮るには十分な、自然の衝立。
 その狭間に、火炎が翻った。
 蒼龍の月の、玲瓏にして冷厳なる醒めた輝きを染め替えるような、赤。
 それは、杖を手にした一人の女性に宿り、天空の数多の宝石を圧するかのように周囲を睥睨する。
 彼女は、片手で顔を拭った。
 湿った、泥に近い土が、蒼白い肌の上に黒く筋を引く
「今まで、色々な穴に落ちてきたけど、流石に墓穴ってのは初めてだわ……」
 その容貌と、かなり落差のある呟きを漏らすと、その女性は天を見上げた。
 二つの月。
 無数の星。
 その空隙を埋める黒い天幕。
「ここからは、見難いわね……。……でも、確実に紅亡の星はその輝きを増している筈」
 視線を下ろすと、おもむろに腕を組み、せかせかと忙しげに歩き出す。
 緑の瞳が、葉々の合間をぬって降り来る天空の灯火の呼び声に、静かに応え、煌く。
「まぁ、どうでもよいものであるにせよ、取り敢えず巻物は切り離した。『白き手のフィアナ』の介入を許してしまったのは誤算だけれど……でも、仕方ないわね。ティオレとクオンの結びつきを考えれば」
 それが、考え事をするときの癖であるのか、独り言を呟きながら、その女性は同じところをぐるぐると歩き回る。
 水分を多めに含む大地の上に、足跡が規則正しく円を刻んでいく。
「……要は、クオンを教会の生贄に、哀れなる殉教者にさせなければいいだけのこと。幸い、ティオレはフィアナとは違う。修道会には属していない。修道騎士というわけではない。真相を知れば、或いは、あの狂信者の連中から離れさせることができないともいいきれないところ……」
 ふむ。
 こうなってくると、死んだことになっているのは、むしろ好都合だ。
 教会に、直接仕掛けることも可能になってくる。
 まぁ、あの『指導者フィアナ』、『白き手のフィアナ』をどこまで欺けるのか、難しいところではあるが。
 が、今回はうまくやり遂げた。
 リガロが出さずともよい欲を出してくれたがゆえに、こちらとしては助かった。いつこうなるか、正直、楽しみにしていたところもないではないが、些かあざと過ぎて興醒めなのは否めぬ事実だ。
「となると、まずは、ティオレを動かしているあの男か……」
 こちらはこちらで、なかなかに手強い相手ではある。
 フィアナと違い、決して自ら表には出てこない。
 いや、出てきても本性を見せることは、絶対にしない。
「こうなるのなら、もうちょっと、リガロを使いたかったところかしら……けど、ま、それなりに役立ってくれた、か」
 あとは、好きにさせてやろう。私も、拘っていられる程、暇を持て余している訳ではない。やることは山積している。
 彼女は、立ち止まり、にやりと意地悪げな笑みを浮かべると一人ごちた。
「何れにせよ、私は表舞台とは暫しのお別れ。……せいぜい気をつけるのよ、クオン」
 そして、彼女は何処ともなく立ち去った。


Written by artemis (04.04.11)
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