JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





四周目二番



 見るとはなしにその市場の雑踏を眺めていたかれは、その人ごみの中に見覚えのある横顔を見つけて、慌てて今踏み出してきたばかりの戸口の中に身を隠した。身を隠したところで、かれについて今まさに戸口から出ようとしていた男にまともにぶつかる。
「ってェ……」
 不平がましい声が上がった。長身のかれは右腕に軽い衝撃を受けただけですんだが、相手はどうやらまともに顔をぶつけたらしい。
「ンです、リガロのダンナ。鼻が潰れっちまったらどうしてくれるんでさ? なんか忘れもンでもしましたかい? ――っと、今はエル……なんとかって名乗ってたんでしたっけ?」
「悪かったよ、てめェに潰れるほどの鼻があったとは知らなかったんでなぁ、《鼠》?」
 振り返って、リガロと呼ばれた男は唇の端を吊り上げてみせた。相手も似たような表情をしている。「こちら側」――まぁ、ようするに「日陰の側」にいる人間同士ではよく見られる表情の作り方だ。作り笑いといえなくもないだろうが、せいぜい笑っているといえそうなのは口元だけで、その油断のない目つきはかけらも笑っていない。見たところそこらの町人と選ぶところのない容貌、出で立ちだが、小狡そうな光をたたえた眼とその口元の表情が、その男――《鼠》と呼ばれた男が堅気でないことを雄弁に物語っていた。
 その小悪党然とした表情をしているところを見れば、まさに《鼠》といった顔つきだが、《ギルド》のメンバーならそれこそこんな顔をしている男は掃いて捨てるほどいる。《鼠》というその同じ通り名を持つ者も、大きな町の支部なら町ひとつにひとりいたって不思議はない。
「ま、てめェらと関わる時ぁ「リガロ」でいいさ。名前を変えてんのは「表」の連中に余計な詮索をさせねぇためだからな」
「へいへい、そうさせていただきましょう、エルフィス、じゃねぇ、リガロのダンナ」
 《鼠》は、わざとらしく、「使わなくていい」と云ったばかりの「今の」名前を口にした。それには「ケッ」と短く吐き捨てただけで、リガロは戸口の陰に身を隠して、さっき、つい先日見たばかりの顔ぶれがいたあたりを注意深く見やった。
 もう、おそらくは人ごみにまぎれてしまったのだろう。あのクロスボウ使いの聖職者の姿は見当たらなかった。
 あの際立って整った容貌に黒いカソックという特徴的ななりだからこそ、そうと見極められた距離だ。まさかこちらが認識されているとも思えない。こちらは、顔こそろくに変装もしていないが、全身を覆うマントに帽子、ついでに名前まで変えているのだし、最悪、雑踏の中ですれ違ったとしても容易に感づかれるとも考えにくいが――。
「……なんです、ダンナ、見知った顔でも?」
「ま、そんなところだな。とりあえずホトボリがさめるまでは面ァ合わせたくねェ相手だ。悪ィが《鼠》、情報収集のほうはてめェに任せさせて貰うぜ」
 懐から取り出した硬貨を《鼠》の懐に押し込みながら云うと、《鼠》は今度は顔全体を歪めて笑った。
「なんなら向こう岸までの足もついでに確保させていただきやすぜ?」
「クソッタレ。てめェら《ギルド》にそこまで頼んだらいくらふっかけられるか知れねェじゃねぇか。いいから云われたことだけさっさとやって来やがれ」
「ま、ダンナがそう云うんならこっちも云われたコトだけやらしていただきますがねぇ。しっかし惜しいなぁ。ダンナほどの腕と度胸がありゃあ、すぐにでも支部のひとつやふたつ、仕切れるカオになれると思うんですがねぇ?」
「悪ィが、長くツルむのは苦手なんでな。《ギルド》にだって深入りするのは御免だぜ」
「へへ、まぁ気が変わったらいつでも云って下せェ」
 もう一度、唇の端を吊り上げてみせると、《鼠》は雑踏の中へと歩き出していった。きっと、今は堅気みたいな実直な表情を作っているのだろう。そうなると完全に人並みに埋もれてしまうことができる、そういう特技を、《鼠》は持っている。この町には何度か立ち寄ったが、そのたびに、かれは情報源として《鼠》を使っていた。
 ふぅ、と息をついて後ろでに扉を閉め、薄暗い店内に引き返す。まだ日も高い。酒場の営業はまだはじまっていない店内では、無表情なバーテンが床をモップがけしているばかりだ。周囲のことなど何も興味のなさそうな、面白くもなさそうな無表情を崩したことのないバーテンだが、その実酒場で語られたどんな会話でも記憶していて、チップ次第でその情報を提供してくれるということを、リガロは知っていた。むろん、営業時間外だからといってその地獄耳は例外を作ったりはしないだろう。一般には《盗賊ギルド》として知られている《ギルド》だが、その構成員にはこのバーテンのような、実際に「盗み」を働いたことのない者も少なからず含まれている。俗世間の領主たちの力関係、勢力関係を超越したネットワークを持っているという意味では、《教会》と《ギルド》は双璧といえるだろう。それは、リガロほどに「裏街道」に深入りしていない者でも、旅人や冒険者といった、程度の差はあれ「俗世間の良民」から浮いている人間の間では常識的な認識になっている。
(……ちッ、《ギルド》から直のお誘いが来るとはな。オレもずいぶん遠くまで来ちまったもんだ……)
 自嘲気味の笑いを浮かべながら、リガロは階段のほうに歩いていった。宿屋として機能しているここの二階に、かれは宿を取っている。今回は長居をするつもりはなかったのだが、やむにやまれぬ理由で、滞在はすでに数日に達していた。
「掃除がすんだら部屋にワインを一杯回してくれねェか?」
「へい、喜んで」
 無愛想な返事に、ありがとうよ、とこちらも無愛想に返し、リガロは階段に足をかけた。

「トロル?」
「はい、トロルです」
 ティオレの返答に、シエーアとジェッターは腕組みして唸った。
「うううむ……」
「トロルか……そいつは厄介だなぁ。って、トロルって何だっけか?」
 もっともらしく唸ってみせた直後のすっとぼけた問いに、その対面に座っていたシエーアは椅子からずり落ちそうになった。ティオレと一緒に入ってきたクオンも、今手にしたばかりの冷えたエールのグラスを取り落としかける。
 ひとりティオレだけが、穏やかな笑みを崩さずに、やってきたウェイトレスに礼儀正しく礼を云っている。
「トロル知らないの? ジェッター」
「いや、なんとなく、こう、ヤバげな名前だなぁとは思うんだけどなぁ。いや、ずっと昔、オレッチ御幼少のみぎりに御両親からそのようななんだか不吉っぽい名前を聞いたこともなくもないような……」
「要するに知らないんじゃんか」
「まぁ、そうとも云うかもな」
「そうとしか云わないよ。まったく……」
「……あー、俺らも座ってもいいかなぁ? シエーア?」
「ああ、ゴメン、クオン、今荷物どけるよ」
 この町で一番大きな酒場、兼宿屋のひとつだ。座席数もそれなりにあるが、今はほとんどが埋まっている。それで、席の確保をかねて、シエーアとジェッターの荷物がクオンとティオレのための座席を占拠しているのだった。
 夕刻といってもまだ早い時刻だ。この町は交通の要所ではあるが、こんな時刻からこれだけ席が埋まっているというのも、本来ならばそうそうあることではない。
 理由はひとつ、この町のすぐそばを流れる大きな川にかかった橋が、ここのところ通行止めの状態になっているのだ。そのせいで、かれらを含む多くの旅人や行商人、その他もろもろの通行人がこの町で足止めを食い、日々滞在する投宿者は増加の一途をたどっている。
「宿屋は大儲けだよねぇ」
「そうでもなさそうだな。客は増える一方なのに、川向こうからの酒や食い物の供給は止まりっぱなしで、この店にしたって品切れメニューが一日ごとに増えてる有様らしいぜ」
 自分の荷物も降ろしてひと息ついたクオンが応じる。
「で、トロルがどうしたの? っていうか、むしろトロルってのが何者なのかから、この空気頭に説明してあげてよ、ティオレ」
「空気頭はねェだろ、シエーア……」
「まぁ空気頭かどうかは置いておいて……」
「ティオレちゃんまで……」
 大げさに天井を仰ぐジェッターに、困ったような微笑を向けて、ティオレは説明をはじめた。
 トロル、あるいはトロール、トロウルともいう。ゴブリンやオーガーなどと同様、名前はよく知られた人外の人間型種族だが、人類の文明が隆盛を誇る地域ではそうそうお目にかかることもなくなった、それは、種族の名である。
 大柄な人間と同等かそれ以上の体格を持ち、「最も不細工で凶悪な面相の人間」よりも醜いぐらいの面構えをしている。肉体は岩石を思わせる頑強さで、剣などの「洗練された」武器よりも、戦斧や戦槌のような「力任せにぶちのめす」武器を好んで使う。非常に好戦的で、人間を食料ぐらいにしか考えておらず、一応言葉が通じないこともないが、友好的な出会いはまず期待できない。熟練した戦士ならともかく、並の旅人などではとても歯が立たない程度には屈強な戦闘能力を持つことに加え、後述する恐るべき能力のために、それなりに腕の立つ冒険者にとってさえ、かれらとの遭遇は災難と称するに値するものとなる……。
「能力……?」
「不死身なんだよ、トロルって奴は」
「不死身、というのとは少し違いますね、クオン」
 ワインで唇を湿らせ、ティオレは説明を続けた。
「トロルという種族はきわめて強力な再生能力を持っています。多少の刀傷程度なら、その傷をつけた剣を構えなおしたときにはもう跡も残らない、というぐらいのものだという記録が教会には残っていますね」
「跡も残らない……って……」
「たとえば私がこれを一発撃ち込んだとします」
 ティオレが、ボルトを取り出し自分の額を示す。
「当たれば脳天に一撃食らわせた程度には利きます。さしものトロルも体勢を崩して、うまくすれば一度は地面に打ち倒すことができるかもしれません。ですが、最初の衝撃から立ち直れば、そのトロル自身が引き抜いて、それで、終わりです」
「終わり……」
「私のクロスボウは連射式ですが、普通の単発のクロスボウだったら、次の一発を装填する前に殴りかかってくるでしょう」
「そりゃ……スゲェな……」
 凄いです、とティオレが真顔でうなずく。
「《生ける死者》の中にも同様の、桁外れな再生能力をもつものは存在していますが、そういった存在ならば、《聖弾》なども有効ですし、銀引きの武器を使うだけでも、ある程度再生を阻害することはできます。しかしトロルの再生は、そういった《邪》に起因する力ではなく、かれら自身の途方もない生命力に根ざした力ですから……」
「《聖弾》をもってしても効果はない……」
「特別製ではありますから、普通のボルトを使うよりはましかもしれませんが……」
「そりゃあ、クオンが不死身って云いたくなる気持ちもわかるな……何か弱点はねェのかよ?」
「あります」
「おお、で?」
「火です」
「火……」
 その言葉は、クオンの心に、たちどころにひとつのイメージを想起させた。
 炎の魔術を得意としていた魔術師と、かれらはひとつの冒険をともにしたのだ。
 したはずだ。
 しかし、その記憶の細部――ことに、その炎の魔術師に関する部分は、なんだか自分の記憶でないみたいに不完全で、不確かで、そして実感を伴わない。ティオレの説明で、それがその魔術師の使った「幻惑の魔術」の影響であることは、頭では理解している。おそらく、術者が術を使った直後に死亡したために、術の効果が不完全であやふやなものになったのだろう、ということは。
 ティオレ――いや、フィアナだ、と、頭の中で訂正しながらその横顔を見やる。
 ティオレはどこにいるのだろう。ティオレの体調が問題でついてこられなかったのなら、自分たちがここで足止めを食っている間に追いついてくれたりしたら、それはそれで不幸中の幸いということになってくれるような気もしないでもないが――。
「火、か……エルが得意だったんだよね……」
「エル……誰だ、そりゃ?」
「なんだよジェッター、忘れたの? 一緒に洞窟の中で四苦八苦――したのはボクだけだけどさぁ」
「いや、そんなんいたっけか? いや、いたのか?」
「……一回死んで頭どっかおかしくしちゃったんじゃないの?」
「いや、死んだといってもあれは死んだような死んでないような……」
「どちらにしても彼女はもういません。確かに、いてくれれば話は早かったのですが……」
 ティオレ――フィアナの口調がどことなくぎこちないことに、クオンは気づいた。彼女も、不完全なかかりかたをした幻惑の魔術がどの程度の影響を残しているかはかりかねているのだろう。
「とにかく、火によるダメージ、あるいは傷口が再生する前に焼くことができればいかにトロルといえども……」
「……シエーア、炎の呪文って使えたか?」
「んまぁ……使えないこともないけど……でもエルには遠く及ばないと思うよ。まぁ、トロルの一体や二体なら、クオンなりジェッターなりが頑張ってくれれば再生を妨害する程度ならできないこともないとは思うけど……」
「別に魔法の炎である必要はないんだろ? 普通に火計ってわけにはいかないのかよ?」
「ええと、ジェッター、つまりだな。何で今トロルが問題になってるかというとだな」
「おう」
「そのトロルが徒党を組んで橋の向こう側に住み着いて、橋を通行する人間を襲撃しっては片っ端から食っちまってるからなわけだよ」
「だから、それを火攻めにするわけにはいかないのかと」
「ジェッター、橋って何でできてるか知ってる?」
 つまらなそうにシエーアに指摘されて、ナイフ片手に焼いた肉と格闘していたジェッターの手が止まった。
「……なるほど……」
「しかし、剣が通らないわけじゃないんだろ? とりあえず真っ二つにして橋の左右に投げ捨てちまえば、当面復活してくるってことはないんじゃないのか?」
「それはそうでしょうけれど……トロルの頑強さを考えると、クオンの腕でも唐竹割りに真っ二つ、というのは困難だと思いますよ。首を落として頭と体を遠ざけてしまうことは、まぁ、可能だとは思いますが、切断した直後だと、胴体が頭を拾い上げてつなげてしまったという報告もありますから……」
 その光景を想像して、なんとなくげんなりしてクオンとジェッターは顔を見合わせた。
「……まぁ、自分が相手するんでなければ、笑える景色なんじゃないかと思わんでもないが……」
「それじゃ、新たに炎の呪文が得意な魔術師を探して仲間に加えてやっつけに行くってのは?」
「やってみる価値はあるでしょうが、これだけの人数がここにこうして足止めされていながら、今までそれを実行した者がいないということは……」
「望み薄、か……」
「というかクオンよ、この橋を通過することにこだわる必要はないんじゃねェのか? 聖都イスティーアを目指すって基本方針は変更なしにしても、もっと上流なり下流なりから渡れる場所を探す、とか」
「そりゃま、ジェッターの意見も一理あるわなぁ」
 嘆息して、クオンは応じた。
「数、けっこういるんだよねぇ?」
「そのようですね。人によって十体から百体まで目撃情報もバラバラですけれど、動転して数を見誤ったとしても、まぁ二十やそこらは覚悟しておくべきではないかと」
「仮に頑張って真っ二つが可能だとして、それを二十回繰り返すってのは……剣がもたないだろうなぁ、いくらなんでも――って、たとえば、魔法の剣とかならどうなんだ? 再生されずにバッサバッサ、ってのは……」
 クオンが魔法の剣を連想したのは、剣の耐久性という面では魔法の剣は、どんな上質のものであれ普通の剣とは比較にならないという知識があったためだった。
「炎の魔法がかかった剣ならばむろん可能でしょう。ですが、それ以外だとやはり、よほど強力なものでもなければ厳しいでしょうね。もちろん、切れ味も耐久性も桁違いですから、真っ二つにするのは比較的容易だと思いますが」
「よほど強力なもの、か……たとえば?」
「たとえば……」
 応じかけて、一瞬、聖職者は口ごもった。
 質問したシエーアのほうを見て、小さくため息をつく。
「そう、たとえば、紅蓮鳳凰……」

 夕陽はすでに地平線の向こうに消え、残照だけが開け放した部屋の窓から差し込んでくる。その紅い光を受けて、その光よりも紅い刃がきらめく。
 半ば鞘から抜き出したその刃を、かれはただ見つめていた。
 この剣を、手に入れたときから――この剣を手に入れるために自らの肉親の血に手を染めたときから、かれの時間は止まっていたようなものだった。
 The End。
 その妥協も容赦もない最後の一行は、今も脳裏に焼きついている。
 視線を転ずれば、ベッドサイドのテーブルの上に置いた、その巻物が目に入る。
 まだ、かれは、その巻物を紐解いていなかった。
(俺は……恐れているのか……)
 もう一度、あの一行を目にすることを……。
 刃の上に影が落ちた。
 見ると、窓際に翼を休めたチェルシーが、人間が伸びをするときのように大きく翼を広げているのが目に入った。その翼が、残照を遮って刃に影を落としたのだ。
 視線を落とす。
 ゆっくりと、血の色の刃を鞘に収める。
 立ち上がり、ベッドサイドに運ぶ足が、鉛のように重く感じられた。
 あの最後の一行を目にしてから、何度も巻物を開いた。開くたびに、違う文字が現れているのではないかと、あの一行の次に、別の一行が現れているのではないかと、あの一行を目にしたのはもしかして悪い夢だったのではないかと、僅かな、今まさに消えようとしている残照よりも僅かな望みを心の底に抱いて。
 開いた回数だけ、裏切られた。
(シエーア……)
 その巻物をかれの手から奪って捨てたのは、ついこの間まで名前さえ忘れたと思っていた、妹のシエーアだった。
 この巻物の、先日までの所有者とシエーアが一緒にいた。その一行には、だから、たぶんシエーアとツルんでいたあのジェッターもいたのだろう。そして、あの聖職者がいた。そして、もう一人――少なくとも、もう一人。
(そういや、エルの奴から名前ぐらい聞いときゃよかったかな、こいつの、オレが取り返すまでの所有者――)
 それ以外に、あのパーティのメンバーがいなかったとすれば、かれの顔を知らないのは連中の中ではそいつだけだということになる。そして、向こうのパーティの中でもかれの顔を知らないのはその男だけ。
(考えてみりゃあ、妙なモンだ……)
 苦く笑って、一気に、ひと思いに、巻物を開く。
 幾度となく見返した巻物だった。
 一行目、二行目、何度となく読み返し、一字一句まで正確に脳裏に焼きつけた、かれの巻物だった。
 心がふるえ、手がふるえ、文字がふるえた。
 行を追うごとに、文字を追う目はその速度を落とした。
 運命の一行。
 最後の一行。
 文字が滲んだ。
 ふるえる手で、そっと巻物をテーブルに戻す。
 声もなく落涙しながら、床に膝をつく。
 顔を覆った手に、もう何年も感じたことのない熱さを感じながら、ずっと、かれはそうしていた。
 残照はその名残すら消え、階下の酒場から聞こえてくる喧騒が夜更けの盛り上がりを感じさせはじめるころになって、ようやく、かれは顔を上げた。
「……そうとも、そうこなくっちゃな……」
 炎のような不吉な、氷のような冷酷な瞳には、もはや一滴の涙もない。
「あの時、殺しておくべきだったな。なぁ、チェルシー?」
 自分の名を呼ばれたと思ったか、鷹が小さく喉を鳴らして振り返る。
「そうとも、あの時、お前の剣を手に入れておくべきだったんだ」
 The End の文字は、跡形もなく消えていた。
 かわりに現れていた言葉が示す道は、その道こそは、かれが望んでいた道そのものだった。
「待っていろ……俺の、運命……」

 日はすっかり暮れていた。ふだんなら、無理に町までたどりつこうとはせずに、とっくに野営の支度にとりかかっていたかもしれない。長い旅で、いっとき先を急いだところで、かえって体力を消耗するだけだということは身に染みてわかっている。だが、あれを見てしまったら、とても立ち止まってなどいられなかった。今夜中に町にたどりついたとしても、それ以上の情報収集はできっこないとわかっていても、そこにたどりつかずにはおれなかった。
「あの町に、あいつがいる――」
 もちろん、鷹を飼っているのがあいつだけとは限らない。だが、理由もなく、彼女はそれが――夕暮れ時に、その町の上空を悠然と舞っていた鳥が、その男の鷹だということを確信していた。
「止まれ! ったく、わざわざこんな時間に来なくたっていいじゃねェか。どうせ橋は渡れやしねェんだからよ……」
 市門の脇に立った門番の声に我に返る。その言葉の中にあった、予想もしなかった響きに気づいて訊き返す。
「橋が渡れない……?」
「――ま、いろいろあってな。なんだ、嬢ちゃん、一人旅かい?」
「―― 一人旅よ」
 嬢ちゃん、という呼びかけは愉快ではなかったが、門番の兵士相手にこだわることでもあるまい。短く応じる。
「ええと、名前は?」
「ソウカ」
 まっすぐに、兵士の目を見返して、彼女は答えた。


Written by DRR (04.04.28)
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