JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





五周目四番



「うふふ……酷い御方……」
「ん? 何がだ?」
「あんなに仲のよい御兄弟を裂くような真似をなさるなんて……」
「ふ。王子たちのことか……?」
 窓の向こうに、薄墨色をした曇天が、今にも泣き出しそうな様をみせていた。
 遥か彼方に光芒。
 川の対岸、僅かに広がる平野に端を発し連なる緑の丘陵の、更にその奥、聖都がその下に白く輝く偉容を誇っているであろう地平線。この辺境の小さな町を潤す街道が延び行く先。神々の嘉したもう聖なる都イスティーア。聖都より四方四隅へと張り巡らされた巡礼街道は、この地を通って、王都にも続いている。
 そう。
 大した才覚も持たず、ただ血統のみにより玉座を手に入れた、あの無能極まりない王の本来の住処へと。
 「仕方あるまい。ナーリをまさかガトーに預けるわけにもいかんからなぁ。まあ、命を失うよりはマシだろうよ。」
 男は、ゆっくりと寝台より身を起こした。傍らの女が、掛け布の下で含み笑いを浮かべる。唇の赤さが、妖しいまでに目を引く。美しい女だった。年の頃は、三十には届かぬが、二十の半ばは超えていよう。褐色の髪を枕に押し付け乱しながら、女はその白い指先を、男の裸の胸にすっと這わせた。
「しかし、こんな策をめぐらすとは、あの陰険な宮廷陰謀家め、つくづく愛想が尽きるわ。」
 男は、にやりと笑った。浅黒い活力に満ちた精悍な顔が、その少しばかり目立つ厳つさに似合わぬ人懐こさを感じさせる。
「宮廷陰謀家、ですか?」
 年齢のわりに、かわいらしい仕草で、女は首を少し傾げて見せた。尤も、女の実際の年齢など、本当に分かりはしないものだが。
「ああ。下手な演技はよせ。お前に分からぬ筈はなかろう。ガトーめ、俺の名を騙ってギルドを使って、ナーリを殺させようとは、如何にも小心者の奴らしい。」
 片眉をぴくりと動かしながら、さも面白いとでもいうように、楽しげな表情で、男は言い切った。
 その口調からして、小気味がよい。
 相手の反論など、端からあり得ないとでも言うかのような、気負いのないその言葉には、命令することに慣れた者特有の、自身に溢れた力強さと心地よさが満ちていた。聞いているだけで、納得してしまうような、理屈ではない説得力。
 なるほど、王国の実力者と知られることはある、と女は、目を細めながら、その言葉に聞き入った。
「政治家としては、なかなかの手腕を持っていたんだがな。しかし、欲を覚えた奴には政は預けられん。特に、それまで無欲だった奴が欲を覚えたら、碌なことがない。限度を知らんから、その欲望はきりがない。今だって、政治を一手に預かる身なのだから、それで満足しておればよいものを、更に何を望むのやら……。」
 そう言ったところで。男は、不意に表情を曇らせた。低く、腹の底から響くような、そのがっしりした大柄の体格に相応しい声も、沈んで聞こえた。
「だが。そうはいっても、俺もいい加減、くすぶっていることには飽きたからなぁ。とはいえ、聖都の威光がこの地に及ぶようになって数十年。最早、戦乱がこの地に及ぶことはあるまい。となれば、戦が商売の我らでさえも、戦陣に立つ機会は、まともにいけば、もうありはしないと考えるのが妥当だろう……。」
 女が男の顔を見上げた。
 枕が撓み、形を変える。汗にしっとりと湿りを帯びた髪のほつれが、僅かに口元にかかっていた。熱の名残を宿した瞳の潤みが、なまめかしい。
 心なし、その肌にも、吐息にも、まだ薄紅が滲んでいるように思えた。
「おまけに、聖都への玄関口にあたるこの地には、兵力を支えるだけの人口も、生産力もありませんものね。」
「そうだ。確かにここは王都ではないし、敵対国との国境でもない。だが、重要な戦略拠点であるのは確かだ。だのに、たかがトロール共がやってきてくらいで、既に義勇兵を募らねば守備の兵もまともに揃えられないというのだからな。情けないものさ。」
 いつの間にか。窓の外に、無数の白い斜線が降り注いでいた。遠く、雷鳴がくぐもって響いてくる。
 水滴が窓を、不可思議に絡み合う文様で彩っていた。
「ふ。まぁ、今更この町の戦力の多寡を語ったところで意味は無い。何れにせよ、我が国には最早、軍と呼べるものはない。何か事が起これば、力が全ての野蛮な時代に逆戻りだろうさ。この一見平和な、安定した王国にしかれる『善政』とやらは、つまるところその程度のもの。薄氷の上をドラゴンがドシドシ音たてて歩いてるようなもんだ。ガトーが好機とばかりこんな下劣な真似に出たってのも、分からんわけじゃないな。」
「その善政は国を遍く照らす、と謳われる王の治世とは思えませんわね」
 くすりと、女が笑った。
 子供のような無邪気な笑い。妖しさにほんの一瞬臈たけた美しさが勝る。
「神とやらのご加護のありがたさが分かろうというものさ」
 王自身の功績ではないと、言外に匂わせながら、男は茶化した。
「とはいえ、だ。宮廷内部は、決して平和でも、安定しているわけでもない。そこに狙うべき隙があったわけだ。」
「王位継承問題……。くす。あまりにもありがちですわね……?」
「それだけで、王の資質が分かろう?」
 男の口調が熱を帯びる。
「未だ若い二人の王子……。未熟ではあるがどちらも少なからず王者としての風格を備えている。当面は補佐役が必要だろうが、二十年もすれば王国の体制は磐石となろう。……その下で国家の礎石となる。名臣と謳われ、民に慕われつつその死を惜しまれながら時の流れの中に埋もれてゆく……。それもよかろう! だが、俺は御免だ。男と生まれたからには、功を遂げ、名を残したい! でなくて、この長くはない生というものに何の意味があろうか!」
「……閣下……」
「とまぁ、男ならこう思ってもおかしくない訳さ。まぁ、どちらかというと、もっと旨い汁を吸いたいとか、俗っぽいこといいそうだがな、ガトーの場合。あの老いぼれめ、あと二十年早くそう思っていれば、英雄として称えられたものを。妙なときに妙なことを思いつくから、俺が苦労することになる。」
 顔はにこやかに笑っているようにみえた。
 が。
 拳は、握り締められていた。その握りこまれた指先が、赤く染まるほどに強く。その唇も噛み締められていた。まるで、屈辱を必死に耐え忍ぶかのように。
 女が、すっと身を起こした。ふわっと、あまやかな、だが爽やかさを失わないそこはかとない香りが匂いたつ。翠の香り。それは、今、都で流行っている香水の香りだった。その香りを従えて、彼女のほっそりとした造形の滑らかな腕が、男の顔へとのびた。宥めるように、あやすように、彼の頬にそっと掌を添える。柔らかい、慰められる感触。
「公爵閣下。策に身を埋めるものは、策を墓標となします。閣下の真摯な労苦は、必ず芳しい実を結びますわ……」
 甘く、誘惑するかの如く、女が艶めいた口調で囁いた。
「そもそも、ずっと王国を守護されてきたのは、閣下ですわ。聖都の意を汲んで国と誇りを売り、その対価として玉座を手に入れたヴィーア王……。そのヴィーア王におもねり、只管に聖都に尾を振っていただけのガトー公。何れ、こうなる運命だったのです……」
 女は男の体にしな垂れかかる。
 蠱惑的な瞳が媚びるように下から覗き見、見上げる。
 熟れきった唇を、舐めるかにして耳に寄せ、甘美にして美味な毒を吹き込む。言の葉という、味わわずにはいられない、見えざる毒。女の、数多の生贄の血に濡れたその唇は、その危険な味を心ゆくまで転がすのだ。新たな犠牲者が、隠された苦味に気づくまで。
「それに、私は見たい……閣下が今一度、英雄と讃えられるお姿を……」
「ふふ。可愛いことをいう……」
 男の唇が、その言葉を封じた。
 雷鳴が窓を震わせた。
 雷は、どうやら近くに落ちたらしかった。

 ……女は、男の固い唇の感触を思い出し、思わず、自らの唇を触れた。
 既に術は完成していた。
 その成果である天の涙を手に受け、じっとその大粒の水滴を見つめる。
 透明なその欠片の向こうに、逆さの世界が口を開けていた。
 この雨は、純然たる雨ではない。単なる自然の風雨では、討伐隊の足を止める役には立たないし、わざわざ彼女が自ら術を行使する必要もない。天候支配は極めて難度の高い高等魔術の一つではあるが、『水の遣い手』である彼女が出て来ることを求められる程の術ではないのだから。
 彼女は、この雨の水滴一粒一粒に細工をしていた。もともと宿っている水の精霊力を、より強めて封じてあるのだ。それがほんの僅かのものであるとはいえ、意図的に強められた精霊力は、松明や炎の精霊力を必要とする魔術に干渉する。松明の炎はまずその火勢を保つことは出来ず、例え火球等の魔術であろうとも、十全の威力は期待できなくなる筈であった。
 この狭い一地域だけではあるが、雨という気象の変化を生じせしめるのみならず、更にこのような術を重ねるには、流石に相応の実力者でなくては適わない。
 彼女は自らに誇りをもって、眼下の刻々と変化する戦況を見下ろした。
 各隊の戦陣の中、黒い土を背景にあたかも星のように浮かんでいた焔が、徐々にその数を減らしていくのが目に入る。それは、街が更けゆく深夜の闇黒に、まどろみ沈んでいく様を思わせた。
 自らの術の威力に満足し、傍らで同様に満足気な表情を浮かべているクレイトンにちらと視線をやると、そのまま彼女は物思いに沈んだ。
 ここまでは、計画通りに事は進んでいる。まだ、結果が出されたわけではないが、手駒は揃えたし、その指し手も今のところは過たずにすんでいる。本当なら、自らの手で事を進めたいところだが、生憎と事情がそれを許してはくれない。
 彼女がこの地で為すべきことは幾つかあった。
 一つは、この地における聖都の影響力を弱めること。聖都の影響が強まれば、来るべきときに破局が齎される確率も大きくなる。少しでも、かの輩の勢威を弱めるに越したことは無い。あの紅い星が天の中心に輝くまでに。ほんの僅かであろうとも……。
 いま、この地を支配する王国は、元来、聖都と対立する勢力の一翼を担っていた。数十年前、聖都に従う隣国と干戈を交え、教会の神官戦士や、修道騎士といった強敵相手にも一歩も引かなかった強国。しかし、先王が病没し、跡を継いだ現王ヴィーアは、即位するや否や聖都への恭順をみせた。そこにどんな策が張り巡らされていたのかは、分からない。だが、最前線に立つ強国が一夜にしてその立場を覆したことにより、聖都側の力は飛躍的に高まった。事態は急転直下、聖都の勝利の下に収拾され、その後の平穏な時代の幕開けとなった……とされる。若いながらも王国軍の司令官として勇戦していたマーロンは、戦後、巧みに立ち回った結果、命を奪われることも無くその功に報いると称して公爵の封じられたものの、彼の後ろ盾ともいえる軍は聖都の意向により解体された。最前線の城砦都市は、今は聖都から張り巡らされる街道の一つに組み込まれた交易都市に姿を変え、昔日の面影は、僅かにその街の外れに残る城にとどまるのみ。国内には教会が数多く建立され、その勢威をみせつけていた。時が流れ、仇敵であった教会に帰依する者も多い昨今、マーロンの人望は昔に遠く及ばない。だが、その才はやはり宮廷の中では群を抜いていた。彼はいまだに王に次ぐ実力者であり、武官の頂点に君臨している。彼女は、そんな彼が気に入っていた。
 そこで彼女は、まず、マーロンを頂点とする反聖都派に、王国の実権を握らせるために策を練った。
 それは簡単なものだった。自らの策を実行にうつすために、彼女はただ、彼と対立するガトーが抱いていた野心の炎に、ほんの一滴、油を注いでやればよかったのだった。彼女が聖都の思惑なるものを告げてやると、ガトーは即座に、ナーリの暗殺を謀っている。これに対し、清廉な、典型的な武人であるマーロンは、取りあえずナーリをガトーの魔手から守り、トロルを撃退できればよしと考えているようだ。
 だが。
 彼女としては、それでは少々物足りない。
 できれば、ここで、一気に玉座の主を挿げ替えておきたいところであった。そして、新たな玉座の主は、聖都と対立するマーロンでしかありえない。まず、ガトーにナーリを殺させる。その罪を明らかにし、ガトーを消す。ついでに、シューイに乱戦の中戦死してもらえれば言うことはない。最後の締めくくりでマーロンがトロルを撃破すれば完璧だ。ヴィーアは何れ病死して頂こう。ただ、このような血腥い筋書きが、高潔を旨とするマーロンに知れるのは避けねばならなかったが……。幸い、マーロンは王命により、王の親衛隊と共に城を離れられないでいる。
 為すべきことのもう一つは、資格者達一行を足止めすること。正確に言えば、聖都に至る道程最後の町であるこの地で足止めし、聖都において『白き手のフィアナ』の庇護の下に完全に置かれる前に、資格者の持つ巻物を奪取すること。可能ならば、資格者をも取り込みたいものではあるが、既に『守護者』との間に『絆』が結ばれたと推測される以上、資格者自体には手出ししないことが無難だろう。守護者については、大変面倒なことではあるが教会の麾下にある以上、可能であればやはり消さざるを得まい。
 とはいえ。
 フィアナの血族であるらしい守護者は勿論、資格者も相当の手練。更に、絆は色々と見えざる力を秘めているという。二人に共闘されては犠牲が増えるのみだ。従って、彼らが離れている今こそが最大にして唯一の好機。うまく守護者を倒せれば、巻物の奪取のみならず、フィアナの勢力を削ぐことにも役立つことは間違いあるまい。この大きな目的を果たすには幸運なことに、あの極めて有力な指導者たるフィアナは、自らの教区の一つであるこの地を離れ、その精鋭たる修道騎士団も何処ともなく姿を消している。出来れば、フィアナがいないこの機に王国と巻物双方を手に入れておきたかった。
 その為には……。
「さあ、行きましょう。クレイトン。かの『守護者』様を片付けに。あなたの風に期待してるわよ。」
 霧を思わせる水色の薄絹を身に纏った女魔術師は、その所作も軽やかに身を翻らせると、貴婦人の如き華麗さを漂わせながら、次なる標的へと向かって歩き始めたのだった。

 トロルは強敵だった。
 しかも、その数も少なくなかった。
 最初に目にした数は、ほんの一部で、時が経つにつれ、様子見のためか川向こうの森に潜んでいたと思われる連中が、いまや所狭しと次々に姿を現していた。
 大きく分けると、右翼・中央・左翼に展開する討伐隊のうち、いまや右翼は崩壊し、トロル達は中央の軍へと浸潤し始めていた。
 戦局の最初の転換期は、戦陣に雨の降り始めたとき。その雨は決して激しいようには思えなかったのだが、義勇兵達が手にしていた松明の火を弱め、消してしまっていた。炎属性の剣ですら心なしか、切れ味を鈍らせているように見え、唯でさえ魔法を身につけたものが少なかった討伐隊において、術が尽き始めたのも重なった。
 一度、攻め手が緩むと、再生力と攻撃力において人間に大きく勝る怪物達は、その本能の赴くままに眼前の敵に食らいついた。
 手にした原始的な武器を力任せに振り回し、ただただ純粋な力を破壊へと変えていく。だが、その力押しの前に、人間は敗れ去ろうとしていた。
 中央の軍が崩壊すると、討伐隊は、川向こうへの撤退路を失うことになる。一番陣営が厚いとはいえ、正面と側面の二方向から攻め立てれば、その壊走は時間の問題だろう。ましてや、金で雇われた傭兵の集まり、一度崩れ始めれば、早い。そうなっては、最早、手の打ちようが無くなる。
 討伐隊は、徐々に全軍を後退させ、戦線の縮小と兵の再編を図ろうとしていた。
 その、混乱の中。
 右翼を目指して、兵力の流れに反する小さな一団があった。
「……王子、これ以上は危険です。この乱戦では、シューイ王子を探すよりも先に、我々がやられかねません。一旦、引きましょう!」
 クオンは、かつての右翼の戦陣を目指し、こちらに向かってくる味方を押し分け、掻き分けつつ叫んだ。崩壊してしまったといっても過言ではない状態の討伐隊は、既に三々五々、息も絶え絶えにかろうじて秩序を保って、町に向かって橋を渡り始めていた。現時点で殿を務める精鋭部隊、即ち弟王子シューイと彼を守る近衛部隊は、成り行き上、やむを得ずなんとか橋の袂で踏みとどまっている、というだけに過ぎない。悲鳴や呻き声、剣戟の音、踏みしだく軍靴の泥を撥ねる音が、地獄の王を歓待する奏楽となって響き渡っていた。とにかく前へと先を急ぐ王子に話しかけるにも、大声で叫ばねば耳に届くことは無い。しかし、王子は、周囲の阿鼻叫喚にも負けぬ、毅然とした大人びた声を、クオンに返してきた。
 「馬鹿を申すな! 我が弟は、その幼さをも顧みず、ただ民を思って騎士の務めを果たしているのだぞ! その弟を置いて撤退など出来るものか!」
「その通りです殿下! あちらに見えるのはシューイ殿下の旗印。どうやら、敵の攻め手に押されているよう、論じている場合ではありません! まずは急ぎましょう!!」
 王子と併走する少女が、クオンを蔑むようにねめつけながら、ナーリを先導して駆け抜けていく。たちまち人並みに紛れる二人を一瞬立ち止まって呆然と見送りながら。
 (……はぁ)
 クオンは内心溜息をついた。
 こうなるだろう。こうなるだろうとは思っていたのだ。腕は立つし、歳に比して随分と大人びいてはいるが、そこはやはり少年、軍の指揮などとったこともない未熟な戦士。所詮、戦略眼などというものを求められる相手ではなかろうが……。
 (まぁ、そういったところが好ましくはあるんだよなぁ……)
 決して取り戻せない過去を振り返りながら、郷愁めいたものを胸に、苦笑を浮かべるクオン。
 だが、次の瞬間、その表情は厳しく引き締められた。ちょっととぼけた容貌が、いつになく精悍に、峻厳にみえる。現実問題として、元々強力とはいえないシエーアの術はほとんど残っておらず、あの少女もなかなかに腕が立つとはいえ、結局は個々の剣技が全ての状況。ならば、最前線ともいえるこの場においては、シューイの近衛と合流した方が得策と考えることも出来なくもない。ならばそれは一刻でも早いことが望ましい……。
「クオン、早くしないと、王子を見失っちゃうよ!?」
 ともすれば味方にさえ弾き飛ばされそうになる小柄な身体を機敏に動かしながらのシエーアの珍しくまともな忠告に、クオンは慌てて、かなり先に行ってしまった二人組を追い始めたのだった。

 ――――坊やね。
 ソウカは、傍らの王子を横目で観察した。
 自らの弾む吐息が、少し耳障りだったこともあるだろうか。
 その視線は決して友好的とは言い難い、冷たく、嘲笑うような軽侮の念に満ちたものだった。
 剣の実力はなかなかだが、ただそれだけの若者。自らの無謀な行動が、どれほど周囲には迷惑であるかということが分からない、甘やかされた子供。
 冷然とした笑みが頬を彩る。
 その冷たさは、彼女の手にする剣の発する冷気に勝るとも劣らぬものだった。
 彼女の深奥を映し出したかのような、その暗く歪んだ笑みを隠すこともなく、少女は走る。
 ただ、自らの目的の為に。
 ただ、あの男のもとに辿り着く為に。
 復讐という彼女の究極の目的の前に、全ては塵芥に等しい。
 ソウカは、自ら剣を振るいながら行く手を切り開きながら、巧妙にナーリをクオン達から遠ざけるように導いた。
「ここで死ぬなら、それまでということ」
 彼女の呟きは、戦場の不吉な喧騒に紛れ、誰の耳にもふれることはなかった。
 そう、彼女のすぐ傍らの、ナーリ王子にすらも。
 死と恐怖と絶望の交じり合う橋の上、彼女の唇の動きだけが語っていた。
「……さあ、どうするの? お望み通り、お膳立てはしたわよ……」

「ほほう! なかなかやってくれるじゃないか、ヒヨっ子!」
 既に、橋頭堡を失い、橋を目指してシューイとその近衛の騎士たち数名は、堅陣を組みながら、徐々に交代していた。
 シューイ王子を囲んで全ての角度の攻めから護るようにして、撤退しつつあるとき、不意にそれが視覚に飛び込んできた。数多の修羅場をくぐったエルフィスからみても、迷いのない太刀筋の、一見して鍛錬によって編みだされたものと分かる、基本を組み合わせた見事な剣技を浴びせた王子に続き、間髪おかずに恐ろしいほどの冷気を漂わせる魔剣を使い、容赦なくトロルに止めを刺すソウカ。それは、まるで生まれたときから共に戦ってきた仲間であるかのような隙のない連携であった。二人が一つの生物と化して間断なく敵に襲い掛かる様に、一瞬、純粋に賞賛の念を覚え、思わず口笛を吹いてしまったエルフィスだったが、すぐに彼はソウカが振るった剣の方に気をとられた。瞬時に切り口を凍結させる、蒼白い輝きを纏った水晶の剣……。
 放たれる冷気が、怪物のもつ紅い滴を貴石に変えて撒き散らし、中空の水をさえ凍らせ宝石の如く煌かせる。その痛いような冷たさが、この手にまで染み入るように感じられた。その刀身はだが、いつまでも穢れなき清澄さを宿らせる、光放つ青い透明さの結した水晶。彼が長年追い求めてきた、心の恋人とも言うべき青の剣。間違いなかった。
「ふふ。なんだ、あっさりと見つかったじゃねーか」
 エルフィスは、にやりと、どうみても騎士には似つかわしくない獰猛で些か下卑た笑いを浮かべると、あっさりと持ち場を放棄して駆け出した。
「待ってたぜ、お前を手にする日を……。青の剣、『蒼漣龍皇』。そいつはオレが頂いたぜっ!!!」

 そこは、大河の岸の傍に、緑が溶け込むように突き出した、小高い丘だった。
 真後ろに、町のはずれに広がる森の端が緑豊かに広がっている。正面には、今まさに撤退しようとしている討伐隊と、それを追いたてる怪物の群れが入り乱れる、町の生命線とも言える大橋の遠景。
 少し小波がざわめいてはいたが、凪を想わせるゆったりとした水面には、大橋の影が映し出されていた。
 彼女が、いっそ無感情とも言い得る冷酷極まる醒めた感情を宿らせた瞳をもって眼下を睥睨する間にも、次々と義勇兵が、まるで道端の小石のように吹き飛ばされているのが、遥か遠くに感じられた。
 冷たい雨のふりそぼる、河岸。
 足元の赤茶けた大地を飾る白く小さな名もなき花を、愛しげに、優しく手折る。雨と川との競演が齎す濃厚な水の匂いの中に、うっすらと甘い香りが入り混じった。
 驟雨に濡れ、些かなりとも重みを増している筈の、青みを帯びて輝く純白の聖衣が、突然の風に軽やかに踊り、流れる。
 白い花弁が、昇りゆく風の流れに手を離れ、天の画布に書き散らされたかのように舞って消え失せていく。
 濡れるにまかせていた、その嵩余るもかろき髪から、透明な雫が、名残を惜しむように時間をかけて零れ落ちた。
「……頃合、ね。」
 川の囁き、風の溜息。二つながら引き裂いて、それでも静かに穏やかに、発せられた言葉。
 言葉の主は、腰の剣をそっと引き抜いた。
 ゆっくりと。
 祈りを込めるように。
 刃を染める今だ乾かぬ紅の涙滴が、そのほっそりとした身体の正面に騎士の答礼を模して構えられた剣を、音もなく装う。刃から柄、そして、その柄を握る大理石を削りだしたかの如き優美な指先を、雨滴に滲みながら大地に向かって、それは流れ落ちる。
 それは何れの命の残り香であったのか。
 彼女は、それに視線を向けることもなく、静かに目を瞑ると一人静かに独白する。
「この私が、このようなところで足止めされるなどありえぬこと。敗れるなどありえぬこと……。どんなに祈り、どんなに願おうとも、時は待ってはくれないのだから……。そう。私は立ち止まるわけにはいかない……。決して……!」
 剣に光が宿る。
「……ごめんなさい、クオン。私は……いいえ、私たちは、この地であまりにも無駄に時を費し過ぎました……。」
 蒼白い輝き。
「もう、これ以上……この地に留まるわけには、いかないの……」
 それはだが、温かく包み込むような、全てを慈しむ大地の母のような無辺の優しさを宿していた。
「そして、準備をしている余裕もないの。申し訳ないのだけれど、少々手荒い真似をします……。赦して下さいね。」
 それは、徐々に刃を、剣を覆い、やがては剣よりも大きな光の塊、輝きの奔流となって強く脈動する。
 まるで天に血を巡らす、大地に隠された心の臓かというように。
「大丈夫。命を落とすことだけは、ありませんから……」
 瞼が開かれた。
 見開かれる彼女の瞳。
 陰鬱に、埋み火の如く暗く紅く煌く瞳。
 『力』が、彼女の強靭にして不屈なる絶対の意思に踊り、時を追って鮮やかに色づき揺らめく。
 彼女の力に染まった瞳は、曇り一つ無きその小さくも力強い輝きは、あまりにも澄みきっていた。
 まるで、虚無がその向こうに控えているかのように。
 常に纏う慈母の優しさは、その口元に浮かぶあるかなきかの微笑に掻き消され、いまや酷薄さと無慈悲と倣岸さとが無機質な純白の聖衣の形をとって、彼女を包んでいた。
 僅かに、しっとりと重く湿る前髪の柔らかく額にかかる様がなまめかしく、ふと彼女が妙齢の女性であることを思い出させる。
「だから……」
 奏でられる声音はあくまで穏やかにして温和。
 その口調は赤子をあやすかのよう。
だが。
 そこには、彼女の二つ名の一つ、『白の聖女』を思わせるような柔弱な雰囲気はなかった。
 ……何一つ。
「ティオレと共に……」
 現世における神の化身。
 翳りなき眩き光。
 その光の欠片を手にした彼女は、近寄るもの全ての身を竦ませる侵しがたい威厳を身に纏い、触れれば切れるような冷たく鋭い神気を漂わせていた。
 彼女の妹が見れば、一抹の寂しさを秘めつつ頷いたことだろう。
 彼女こそ、神の精兵であると。
「……聖都で会いましょう、クオン……!」
 無駄もなく隙も無い、完璧な所作で、剣が振り抜かれる。天の光輝を宿した刃を走らせて。
 血涙が散り消え、銀光が中空に弧を描く。
 静から動。全てが反転する刹那。永遠にして無限なる一瞬。
 天地の狭間に放たれたる裂帛の気合。
「――――薙ぎ払えっっっっ!!!」

「逃げろっ! 逃げるんだっシューイ!!」
 突如、自分の方に向かって走り出した騎士。それまで、忌まわしき怪物どもを退けてきた、魔剣の織り成す堅陣は、たったそれだけのことで、脆くも崩れ去った。
 只管に弟を案じるナーリの視界に恐怖を伴って飛び込んできたのは、その狂ったとしか思えぬ近衛騎士が受け持っていた一角の情景。
 欠けたその一角を、単純な暴力でもってまさに抜かんとするトロルの、獰猛にして凶暴なる強大な死の影が埋める。
 ナーリの身長の倍はあろうかという巨躯、その太腿を三本は纏めねば足りぬほどの剛腕。その獣じみた怪物は緑と青の中間を思わせる汚らしい色の肌を真紅で染めながら、雷のような怒号を発して、ただただ原始的に、力任せに手にした得物を振るって突進する。その乱れた激しい歩調に合わせて、地面が恐れ慄くがごとくに震えた。
 その騎士は、手練であったのだろう。
 既に再生しつつあるが、数多の切り傷を負い、血を流し、ところどころ治癒しえぬ焦げ跡を残したトロルは、逃れえぬ苦痛に怒り狂っていた。目前より突如報復すべき憎き仇が姿を消したことに、疑問をもったのも数瞬。
 単純にして無謀な頭脳は、すぐに手近な、復讐の対象を見つけ出していた。
 その猛るトロルの前には、ただ立ちはだかるのみの人形があった。
 否。
 それは重装鎧の重みに動けずにいる、一人の少年。
 彼を守るべき、周囲の騎士は、何故か一歩も動かなかった。
 恐怖ゆえか。
 あるいは、突然のことに思考がついていかぬのか。
 神ならぬ身のナーリには、それが謀によるものとは想像すらできぬこと。
 ただ、分かったこと、感じたことは。
 その少年を守らねばならないということ。
 その重装鎧が目に入る前から、血の絆が呼ぶ不思議な感覚によるものか、ナーリには、それが、そこにいるであろう少年が、誰よりも大切な弟であることがわかっていた。わかっていたのだ。
 ナーリは叫ぶと同時に、剣を上段に抜き撃つと、後先を考えずに突撃していた。
 五歩進んだところで、走ってきた騎士とすれ違った。
 十歩進んだところで、その化け物が振り向くのが見えた。
 そして。
 十五歩目、木をそのまま抜いた、人にとってはあまりに巨大な棍棒と、魔法により鋭く磨き上げられた、怪物にとってはあまりに鋭利は剣とが、お互いの死角を突き交錯した。
「シューイ―っ!!」
 ナーリは。
 高揚する気持ちの中で、ただ弟を思い奮い立つ熱い思いの中で、その声を聞いたと思った。
 忘れえぬその声。
 あの、幼いころよりずっと耳にしてきた、心地よい、幼さの残るまだ高い少年の声が聞こえたと思ったそのとき――。

 そのとき、クオンはナーリを漸く視界の片隅に捉えた。
 そして、その傍らに控える一人の少女も。
 二人の動きは変則的で、しかも想像したよりも遥かに機敏だった。
 敵味方両陣営によって、その姿は隠されて、容易に見つけ出すことはできず、思った以上に追いつくのに手間取った。
 完全にクオンの失態だった。
 王子を守るどころか、引き離され見失うとは……。
 自らの不甲斐なさに歯噛みするクオンのみつめるその先で。
 王子は、剣を抜き、駆け出していた。
 ――嫌な予感がした。
 あまりの強行軍に息をきらせ、軽口一つ叩けないながらも必死でついてくるシエーアを半ば引っ張るようにして、クオンはそちらに向かうべく、一歩踏み出した。
 雨にぬかるむ足元で、泥を踏み分けるなんともいえない感覚が、気持ち悪く感じられた。
 急く心よりも、遥かに鈍重な身体。
 交互に前に出される足は、だが、クオンをナーリのもとまでは運べない。
 王子を救おうと、咄嗟に剣の握りをかえ投擲体制に入ったその刹那。
 短くも長い一瞬。
 クオンは、壁をみた気がした。
 王子の向こう、トロルの巨躯の更に向こう、天を覆うように立ちはだかる濁った青に染まる壁。
 轟音と波しぶきに彩られた、巨大な水壁。
 ――――そして。全てが暗転した。

 純粋にして巨大なる秘力。
 その力ならば、いかにこの歴史に名を刻むやもしれぬ大橋と雖も、瞬きする間も形を保つこと能わぬのは、幼子の目にも明らかであった。
 だが、その力の向けられし先は橋ではなかった。
 これを砕けば、代わりとなる橋を造るに莫大な費用と労力を要するは必定。たかがトロールの為に、数多の町と国を潤す経済の血脈を、たとえ一筋、一時と言えども、留めるわけにいく筈もない。そもそもトロール如き、わざわざ倒して回る無駄な手間をかける必要などありはしない。大した知恵のない図体ばかりの化け物など、城の片隅に住まう鼠に等しい。駆除できずとも目のつくところから追い払えば十分。
 いま、『力』に狙われたのは、河そのもの。
 正確には、長き道程を海に向かい只管に下り行く大量の水。
 放たれし見えざる力の塊は、灰色の天を映して暗鬱に濁る流れに衝突し、炸裂した。
 鈍色を覆し深緑の水塊が川底の黒混じりの泥土とともに盛り上がり、吐き出されるように面を見せる。目を瞑る暇もあらばこそ、深緑から碧、そして水色から白へとゆったりとした波動は激しい泡立ちへと姿を変え、弾け飛ぶ。そのうねりに巨大な命なき命を宿すと、蒼い腕を返すかのように、青山と膨れ上がった水面が駆け抜けた。
 神威具えし絶対の力は、そのまま水を抉りとると、振り向けられた剣の切っ先の更なる先へと向かおうとして、激しく震え、ついには清廉にして重厚なる水の壁に敗れ去る。だが、その理不尽に思うが侭虐げられた水壁は、そのまま城壁ほどもあろうかという高さを維持したまま、内陸に生れ落ちた津波となって突き進んでいく。
 ただ、かの大橋へと。
 そして。
 橋の上には、今まさに人々を胃の腑に収めんとする、本能のままに押し寄せるトロールの大群があったのだった。
 それに応じて立ちし、いくそばくの人々と共に……。

 しのつく雨の中。
 彼らが見たそれは。
 川を、
 橋を、
 討伐隊を、
 トロルを、
 そこにある全てを、飲み込んだ。
 ――そして


Written by artemis (04.08.26)
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