JOL 的 リレー小説


タイトル未定



 現在進行中のリレー小説はこちらからどうぞ。(直リンは何故かはじかれる模様)





六周目三番



 小さな炎が揺れる。周囲のわずかな空気の動きに踊る。音もたてずに、気まぐれに。
 炎の中心部には芯がある。その芯は、溶けた蝋の透明な池から生えている。蝋の池をかたちづくる縁と底は、白い、まだ溶けていない蝋でできている。蝋が炎を燃やし、炎が蝋を溶かし、ろうそくは少しずつ短くなってゆく。蝋の池の縁はときどき決壊して、そこから溶けた蝋がこぼれ出す。涙の滴みたいにこぼれ出した蝋は、ろうそくの側面をつたううちに急速に冷やされ、滴の形のまま固まって、縮んでゆくろうそくの形を変化させる。
 日が暮れてから、もうかなりの時間が経っている。店内の主な光源はろうそくで、店の規模を考えれば決してその数は少なくないはずだが、たとえばここで文字を読むのはひと苦労だと感じる程度の明るさにしかなっていない。彼女は、店のいちばん角よりにあるテーブルの、店の角の壁を背にした場所に陣取っている。そのテーブルに配されたいくつかのろうそくのうちのひとつ、最も自分の席に近い場所にあるそれを、彼女はそこに陣取ると同時に、持参したろうそくと取り替えていた。見た目は、店で使われている安物とほとんど見分けのつかない――ましてこの貧相なろうそくの明かりの中では――ろうそくだが、それにはある種の魔術が吹き込めてある。火を灯せば、踊る炎の特殊なリズム、人間には意識して区別することのできない特殊な光の強弱の変化、人間には意識することのできない微細な、だがある種の精神的な影響力をもつ匂いといった要素が組み合わさって、見る者、近づく者の精神状態にある一定の傾向をもたらす。なんとなく、その炎に近づきたくない、その炎の向こうを見たくない、という傾向を。
 それは非常に弱い影響力にすぎない。その炎に近づくことは可能だし、その炎の向こうを見ることも可能だ。ただ、なんとなく、そうしたくなくなる、そうしようという意思をそらされてしまうだけで。だが、強いてそうしようと意識しない限りは、誰も、この炎には近づかないし、この炎の向こう側――彼女のいる側を見ようとはしない。
 彼女は、半ばうっとりと、その自分が魔力を込めたろうそくの炎を眺めながら、ときどき、最初にひと瓶注文して運ばせたっきり、追加もしていない酒を口に運んでいるのだった。
 街道ぞいの名もない集落の、名もない旅籠だ。いや、もちろん、名ぐらいはあるだろう。この旅籠にしたところで、入り口の看板にはちゃんと「○○亭」の文字が書かれていたはずだ。ついでに、字の読めない者のために、その「○○」の部分を示す稚拙な絵も添えられていたと思う。単に、彼女にとっては大した意味がないから忘れてしまっているだけで。
 その酒場の隅で、彼女は、ひとり静かに、おそらくは自家製と思われるワインを味わっているのだった。
 もちろん、大して美味であろうはずもない。だが、肉体に酒が浸みてゆく感触は久方ぶりのもので、彼女にしてみれば、それ自体がじっくり堪能するに値するものだった。
 右手を杯の表面に這わせ、口をつけた場所にわずかに残る赤い液体を拭い、魔法のろうそくのゆらめく火で照らし、指の表面の渦巻き模様に、その赤い液体が微妙な陰影を刻むのを眺める。一連の動作は、たぶん、客観的に見れば充分になめらかで繊細で優雅なものだろう。だが――。
(……まだ、完全に思い通りに動く、というわけには、いかないみたいね……)
 この肉体を使いはじめて、まだあまり日が経っていない。ずいぶんとこの肉体にも馴染み、複雑な魔術の動作も問題なくこなせるようになってきてはいたが、彼女にしてみれば、まだ「慣らし」が足りないと思える……。
(まったく、わたしとしたことが、あんな間抜けな死に様をさらすとは、ね……)
 今までに、肉体を取り替えた経験がないわけでは、むろん、ない。しかし、意図していない場所で肉体を失ったのは初めてのことだ。計算違いは色々あった。が、全体としては悪い方に転んだわけではなかったし、結果的にこうして新たな肉体に宿ることもできたのだから、よしとするべきだろう。それは、彼女の役目がまだ終わっていないことの証明でもある。彼女の役目が終わるとしたら、それは、世界が『大いなる災い』に直面した後のことだ。その『大いなる災い』の後に世界がどうなっているか、それは彼女にはわからないし、実際のところ興味もない。ついでに云うと、自分の「役目」そのものすら、彼女はたいして重要視していないのだった。
 まぁ、前の肉体を失ったのは対価としては大きすぎたが、一応の目的は達成してある。しばらくはのんびりとこの肉体を慣らしつつ、状況を把握する努力でもはじめれば――
 不意に響いた、ドンッ、と、机を叩く音が、彼女の束の間の平穏を破った。
「なんだと、ごるぁ!」
 音に続いて、べつに葬式みたいに沈黙していたわけではないにせよ、まぁ静かにあちこちで会話が繰り広げられている程度の静けさを保っていた酒場に、男の声が響く。柄の悪そうな、ついでに頭も悪そうな声。
 言葉自体にはとくに特徴もない。酔客どうしの揉め事にはありがちな声にもかかわらず、何かが彼女の心を波立たせる。
 何か? そう、予感――あるいは既視感めいた何かが。
 ゆっくりと、目を上げる。自分自身にも効果を持つ、「なんとなくその向こう側を見る気を失せさせる」炎の向こうに、意識して目を向ける。
 机を叩いて立ち上がった男がひとり、その連れらしき男が二人。
 酒に濁った目に、怒気を込めて見下ろす視線の先には女性がひとり。
(……あーらら……)
 ため息が唇を割った。
 ろうそくのゆらめく光の中で、夜の闇を夜露に溶かして凍らせたみたいな、漆黒の双眸がきらめく。その瞳にも劣らず黒い、つややかな髪。黒い服の、全ての光を飲み込むようなその色は、同じ黒であるにもかかわらず、その瞳や髪とはこの世で一番対照的な色であるかのように、彼女には、見えた。
(これが真の黒、ってことね……)
 白いものをどう頑張って黒く染め上げたところで、この黒には及ばない、ということを、彼女はその黒をふたたび目の当たりにして、しみじみと再認していた。
「耳も悪いようですね。病院に行くことをお奨めしますが」
 女性の声にも表情にも、何の感情も感じられない。
「ああ!? ざけんなよ、このあま!」
 ああ、今ならはっきりわかる。これは予感などというものではない。既視感のほうだ。間違いなく。あのとき彼女はそこに居合わせたわけではなかったが、そこの様子を魔術でうかがっていたのだから。
 もうひとつ、ため息をついて、杯に残ったワインを一気に呷る。テーブルにたてかけた杖を取って、彼女は立ち上がった。

 川の対岸に灯る明かりは、出発前を思えばずいぶんと目減りしてしまっているように思えたが、それでも、そこでの人の営みが失われてしまったわけではないことを信じられるだけのものではあった。
 その明かりと、いま、かれらのいる場所との間を隔てるのは大量の水だ。対岸の光は対岸近くの水面を照らしているが、こちら側はほぼ完全な闇。すぐ足元が水辺であることを感じさせるのは、ほとんどその水音だけ。
「あ――」
 不意に、隣で上がった声に、クオンは浅い眠りに沈み込みかけていた意識を引き戻された。
 立ち上がったシエーアが対岸方面を指差す。その表情までは読み取れない暗さだ。
 眠気の残滓をため息に乗せて吐き出しながら、クオンはその指差す方向を見た。
「……何だ? 何も見えないぞ?」
「小船がこっちに向かってきてる」
 云われて、もう一度、目をこらす。わからない。シエーアに視えるのは、何らかの魔術の助けを借りているからだろう。だが、その小船とやらの主はどうなのだろう。クオンに見えないということは、その小船は松明ひとつ使わずに川を渡ろうとしているというのか。
「……小船?」
「うん……渡し舟、かな?」
「……うーむ……」
 橋は、あの大洪水で流されてしまった。どうやら、川の両岸の地形もずいぶん様変わりしてしまったようだ。とはいえ、トロールはいなくなった以上、渡河は再開されるべきであり、その手段として、とりあえず渡し舟が使われることは充分予想できたことではあるのだが――。
「こんな夜中に、明かりもつけずに?」
「……何か後ろ暗い奴が、夜陰にまぎれて川渡って逃走中とか?」
「有り得る話ではあるな……」
 嘆息して、ベルトのあたりを探る。トロール退治に支給された剣も、背負ってきた自前の剣も、流されて失くしてしまっている。武器といえば、腰に差していた、予備の短剣だけだ。シエーアの武装も、倒れていた兵士――だか志願兵だか――から拝借した短剣のみ。
「……まぁ、ちんぴら程度なら、いきなり襲いかかってきてもなんとかなると思うけど……」
「まぁ、いざとなりゃ《眠りの呪文》あたりで、ひとつ、よろしく」
「――物凄い勢いで了解〜」
 まったく勢いのない返事に苦笑して、クオンは立ち上がった。いつでも抜けるように短剣の柄を確認し、ふたたび闇に目をこらす。
 あらかじめ聞かされていなければ気づきもしなかっただろう。闇の中を、しずしずと一艘の小船が向かってくる。小船には、少なくとも一人の人間が乗っている。小船の中ほどに立って、竿だか櫂だかを器用に操っている。その竿だか櫂だかの立てる小さな水音が、これも、わかっていなければ気づかないぐらいのひそやかさで、耳に届く。
 どちらかというと大柄な人影。男性だろう。近づいてくるにつれて、その男が一人で小船を操っていることがはっきりしてくる。足元にはいくつかの大きな荷物を積んでいる。いや、荷物ではなくて身を伏せた人間である可能性も残っているが――。
「……なんだ? 盗賊か何かか? 火事場泥棒でもやらかしたとか?」
「ううん……違う……いや、盗賊は盗賊なんだけど……」
 シエーアの口調に違和感を感じて、クオンは隣に立った連れのほうに目を向けた。――もちろん、表情も何も見えるはずはないのだが。
「火事場泥棒じゃないと思うよ。ていうか、この際火事場泥棒でも何でもいいよ――」
 声が、震えた。
 小船の上で、大柄な男がごそごそと何かを取り出し、何かの動作をするのが見えた。直後、松明の火が燃え上がって、その動作が松明に火を灯すための動作であったことが明らかになった。けれど、もう、そのときには、かれらには、その動作の意味などどうでもよくなっていた。松明が、よく見知ったその男の顔を照らし出したから。
「ジェッター!」
「おーう、いーまー帰ーったーぞー」
 返事は間延びした、場違いな言葉。それが、ジェッターらしい、と思う。
 すぐ近くで、石か何かを水に投げ込んだみたいな音がした。
 たて続けに。
(……せっかく乾いたのに、また水浸しになっちまうぞ……)
 頬が緩むのを、クオンは感じた

 どこかで、似たような一幕を演じたような気がする。
 どこだったろう。どこでも、似たようなことをやっているような気もする。どうやって片付けよう。三人が三十人でも彼女の敵ではない――殺してしまうのであれば。だが、酒場の揉め事で、いきなり殺すというわけにもいくまい。殺さないように黙らせる。それもべつに難しいことではない。殺すよりは、多少、手間ではあるが。
 どこでも、似たようなことをやっている。彼女の台詞が毎度同じようなものなのは、半ば意図的なことだが、相手の台詞も大差ないというのは何なのだろう。
 立ち上がる。まぁ、素手で充分だろう。
 次の台詞は何だったろう、と、一瞬、迷う。次もいつもと同じ台詞だ。いや、一番最近、似たような揉め事に向き合ったときは、いつもとは少し違ったのだ。割って入った男がいた。その男に会うために、彼女はその町に行ったのだったが、まさかその場面でその男が、その、彼女にとっては珍しくもない揉めごとに、割って入るとは思わなかった……。
 いつもの台詞を思い出して、口を開きかけたとき――。
「月並みな台詞で悪いけれど……彼女が迷惑してるし、店にも迷惑よ?」
 笑いを含んだ女性の声に、一瞬、彼女は眩暈に似た感覚を覚えた。
 幾度となく繰り返したやり取り。「月並みな」と、その言葉の主が云うほどには、それは月並みなできごとでは、彼女にとっては、ない。
「だったらなんだっていうんだよ」
 絡んできた男たちの視線が、彼女をはずれ、その声の主のほうへと集中する。彼女の視線も。いや、店中の視線が。
 炎のような赤い髪、宝石めいた緑の瞳、先端に紅玉の嵌め込まれた杖――。
 その外見的特徴をそのまま備えた女性を、彼女は知っていた。
 そこに立っていた女性は、しかし、その女性ではなかった。似ている。いや、髪や目の色を除けば似ているとは云えないだろうか。彼女の知っているその女性は、彼女と同年輩か年下にみえた。今、店中の視線を集めて嫣然と微笑んでいるその女性は、明らかに彼女より年上にみえる。彼女の知り合いはどちらかといえば小柄だったが、この女性は背も彼女より上だ。しかし――
(……似ている……エル、に……)
 彼女と目が合うと、その女性は睫毛で風を切る音が聞こえてきそうな勢いで、ばちり、と大げさなウィンクを飛ばした。
 一瞬、時間が止まったように、店内が静まり返る。
 三人の男たちの目は、今や彼女を離れ、その女性の胸元の見事な盛り上がりに吸い寄せられている。
 ――思い出した。次の台詞を。いつもの台詞ではない。その、「月並みな」台詞に続けるべき台詞を。
「その人達は遠まわしな言い方は理解出来ないみたいです――」
「……なら、分かりやすく行こうかしら?」
 派手な美貌の女性だ。それだけに、その表情の変化の与える印象は強烈だった。
 笑みは笑みのまま、不敵な、嘲るような微笑が、その、薄暗い中でも鮮やかに紅い唇に刻まれる。
「邪魔だから店から出てお行きなさい!」
「っんだとッ! この野郎が!」
「野郎、てのは男に使う言葉よ?」
 弄うような笑い。すでに相当に酔いがまわっているらしい男がつかみかかる――虚空に!
 いや、虚空ではない、そこには炎が踊っている。ろうそくもランタンも松明もない。中空に、誘うように炎だけが。
(幻術……!)
 男には、そこにその女性がいるように見えているのだ。それが、彼女にははっきりとわかった。
 両手が抱え込む寸前、炎はかき消すように消えた。自分の体を力いっぱい抱きしめて、目の前の何もない空間に体重を預けて、男は無様に床に倒れ込んだ。
「な……ッ!」
 目の前で起こった事態を理解できずに二人目がたたらを踏む。その眼前に、どんっ、と、音を立てて女性が杖を立てる。紅玉が、ぎらり、と光る。いや、実際に光ったわけではない。彼女の特殊な訓練を受けた目が、そこを始点に魔術が発動したのを、光ったかのごとくに認識したのだ。
「――っぎゃああああぁぁぁ!!!」
 すさまじい悲鳴が上がった。
 自分の体を抱くように、両手をばたばたと振り回して、男が暴れ出す。
「あ、あぢぃ! あぢぃぃ! だ、だずげでぐれぇぇ! 消じでぐれぇぇぇ!!」
 ひとり床に転がってばたばたと手足を振り回してのたうつ男の異様な姿に、店中の視線が集中した。何人が理解しただろうか。女性の見せた幻の中で、男は今火だるまになってその火を消そうと必死に転げまわっているのだと。
 残るは三人目。
 そのふたりの仲間を除いた、全員の視線を浴びて、窒息寸前の観賞魚みたいに、男はぱくぱくと口を開閉した。
「た、た、たすけー!」
 やっと声になったはいいが、てくれ、とさえ云えずに背を向け、出口に向かって走り出そうとした男の襟首を、むんず、と、女性の手が捕らえる。
「ひ……っ!?」
「いいわ。助けてあげる。そのかわり、この二人、責任持って片付けてちょうだい」
「は、は、はい! わかりました! わかりましたぁ!!」
 もう、幻の中で消し炭になってしまったのか、ぴくぴくと痙攣している男と、自分を抱きしめたまま悶絶してしまった男をひきずって、最後の男が逃げ出してゆくのを、声もなく、客たちは見送った。
(――あのときは……)
 あのときは、そう、割って入ったあの男の手際を賞賛して、店中で、ほんのいっときとはいえ、大変な盛り上がりになったのだ。
 今、女性の鮮やかな手並みに、この酒場は、畏怖にも似た沈黙に呑み込まれている。
 そっと、息をつく。呑まれていないのは彼女だけだ。もちろん、その女性も、それに気づいている。
「ありがとう、助かりました」
 ふっ、と、女性の表情が緩む。最初の台詞から今に至るまで、その表情はずっと「笑顔」だった。笑顔というのが、こうも多様な色合いをみせるのだということを、彼女は初めて知ったような感覚を覚えた。
「ま、わたしがやらなくても誰かがやってたでしょ」
 笑いを含む声。
「ていうか、たぶん、あなた自身が」
 挑むような目が、まっすぐにこちらの目を見てくる。
「……だとしても、実際に彼らを止めに入ったのは、あなたです」
 店中が、沈黙したまま自分たちの一挙手一投足を注視しているのを感じながら、彼女は、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「私は、ティオレ・グローライト。クラリックです」
「わたしは、マリエル・クローネ」
 炎が揺れる。緑の瞳にうつったろうそくの炎。
「エルでいいわ」
 ふたたび、眩暈に似た感覚が、彼女を襲った。

「――と、いうわけだ。護衛を頼まれたナーリ王子は、まぁ命に別状はない状態でお届けしたが、あの惨状に加えて、シューイ王子は未だ行方不明、城は大混乱、黙ってたらいつまであの城にいさせられるかわかんないからな、さっさと王子を返して、二人の荷物を回収して逃げ出してきた、って寸法よ」
「そりゃ大変な寸法だったな……」
 大して長くこそなかったものの、いろいろと大変だったらしいジェッターの報告を聞いて、クオンは長いため息をついた。
 いずれ渡し船の運航が開始されるだろうから、それを待って、荷物を取りに町に戻る予定だったのだ。戻っていたら、自分たちもその大混乱に巻き込まれてずいぶんと面倒なことになっていたかもしれない。
「いや、ホント助かった。荷物が回収できるなら、オレらももう町に戻らないほうがよさそうだし――」
「だね。つかまったのがジェッターだったのが不幸中の幸いだったよ」
「いや、つかまったってワケでもないんだが……」
 ジェッターが苦笑する。
「ま、ちゃんと荷物が揃ってるかどうか確認してくれや」
「んー……まぁ、最低限必要っぽいモンは持って出陣したからなぁ……」
 むしろ、その最低限必要だった物のほうが少なからず洪水で流されてしまった今、それ以外の荷物が多少欠けてようが、気にしても仕方がない。
「路銀をラクにするアテは流れちゃったけど、文無しってわけでもないし、とりあえずもう出発しない?」
「いや、でも、ティオレちゃんはどうすんだ?」
「どう、っていうか……えーと……」
 どう説明したものか、クオンはちょっと迷った。この二人は、まだ、トレートティースを出るときに、ティオレとフィアナが入れ替わっていたことを知らないのだ。
「……えーと、まぁ、その、大丈夫だと思う。聖都イスティーアを目指すっていう方針は変わってないわけだし、たぶん、イスティーアなり、そこに行く道中なりで合流できるんじゃないかと……」
「そう、かなぁ?」
「まぁ、オレらがここで待つとか町に戻るよりはそのほうが無難だと思う」
 二人が顔を見合わせる。
 しばしの沈黙の後、ジェッターが盛大にため息をついた。
「そうだな。オレッチとしても、もう一度町に戻って、ってのは遠慮したいし」
「そうと決まれば、夜が明ける前にココは離れたほうがよさそうだね」
「だな」
 シエーアが勢いよく立ち上がって、ジェッターが回収してきた自分の荷物を担ぐ。
 それに倣いながら、クオンはもう一度、町の明かりのほうを眺めやった。
(ティオレ――フィアナ……)
 この町に着いたときには――いや、橋が渡れないと知ったときにも、トロール征伐に出撃したときも、まさかこんなことになろうとは夢にも思わなかった。
 あの洪水がふつうの自然災害だったなどとは、クオンはまったく思っていない。シエーアとジェッターにしてもそうだろう。何らかの超自然的な力が介在していたに違いないのだ。それが、かれらや、あるいはフィアナに関係していたかどうかはわからないが、関係しているにせよ、いないにせよ、そんな場所からはさっさと立ち去るに越したことはない――。
「……なんだか、トレートティースといい今回といい、夜逃げみたいな出発ばっかだな」
「せめて今回も馬車があればよかったんだけどな」
「いや、馬車あってもあんまし快適じゃないよ?」
「歩いたらもっと疲れるだろ……」
 もうこれ以上何事もなく聖都に到着したいものだと、改めて、しみじみと思うクオンだった。


Written by DRR (04.10.31)
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